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郷土の先人・先覚1

林 信雄

林信雄博士の写真

林博士は我が国における放射線医学の黎明期に、その研究診療に一生を捧げ、自ら放射線障害に苦しみつつも己を顧みることのなかった偉大な医学者である。

明治30年鶴岡市に生まれた。荘内中学校を経て千葉医専に進み、大正8年に卒業後内科に入局。大正10年京都帝大に内地留学、ここで当時興隆しつつあった内科レントゲン診断学を学び、大正11年千葉医専に内科レントゲン室を新設した。昭和5年「アスナールの中枢神経作用」で学位受領、昭和8年に千葉医大講師となる。その後、市立横須賀病院内科医長兼レントゲン科医長、同病院長井分院長、横須賀保健所長等を歴任し、昭和39年永年の功績により、従五位勲四等旭日小綬章受章。同年12月に胃癌のため逝去された。

初期の放射線医学では骨、関節のレントゲン診断が主流を占めていたが、博士の数多い研究論文をみると、骨はもとより、胸部、消化管、胆のう、心臓、レントゲン治療、放射線生物学の分野にまで広く及んでおり我が国放射線医学史上今なお高く評価されている。また、学会での講演も数多くみられる。更に昭和7年から終戦の年まで、学会の評議員等重責を務めている。

博士の友人の記述では「貴公子然として気品自ら具っていた。しかし、いったん口を開くや低音透徹、酒々落々と心の底まで語り続け、何の衒気もなく表裏一体である。辺幅を飾らず素朴で謙虚、天資聡明の器であった」とある。

研究、診療に比例して放射線障害は博士の手指を蝕み昭和18年には左環指切断、その後年々切断回数を増し、36年には左前腕を切断している。「ペンを持つには右手の残存拇指と第二掌骨との間にはさみ巧みに書かれ、物柔らかな字体は達筆の域に達し」とある。昭和37年より胃癌を発病し、39年12月千葉大学病院で逝去、67歳であった。

葬儀の模様については、「偉業を讃える弔辞は何時果つるとも覚えず…、肢体不自由児父母の会など多くの弔辞は血涙をしぼるものがあり…」とある。博士は医学研究の代償として自らも身体障害者となり、全国肢体不自由児父母の会評議員を務め、その他の身障者の会のためにも精一杯尽力されたのであった。

博士は丹念に集められた書籍を市に寄贈され、これが鶴岡市立図書館の「林文庫」となっている。これを記念して48年鶴岡公園内に林文庫記念碑が建てられた。

重篤な放射線障害を受けながらも天職を全うした博士が、いつまでも郷里の人々の胸の中に生き続けることを願って筆を置く。

(筆者・阿部啓二氏/1988年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

林 信雄(はやし・のぶお)

X線診断やレントゲン療法などの放射線医学の先駆者であり、特に放射線による内科的診断の権威者。

新士町(現・神明町)の林光朝の子として生まれ荘内中学、千葉医専を卒業。県立千葉病院、京都帝大医学部留学、名古屋市愛知理学療養所長、千葉医科大助手などを勤める。この間、外科的領域だったレントゲン診断を肺、心臓、胃、腸など胸部、腹部の領域まで切り開いた。

しかし、放射線障害により両手の親指を除く全指を第一節から切断。その後左腕を失い、自らの肉体を実験台にし研究に没頭した。

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