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郷土の先人・先覚3

石原 莞爾

石原莞爾氏の写真

石原先生に関する著書、論文は500編を超えるといわれるが、そのほとんどすべてが不世出の軍人、満州事変および満州建国の首謀者の1人、昭和における日本の大陸侵略の先駆として先生を描いている。

しかし、石原先生は21世紀の初頭に戦争が絶滅し、永久平和時代の始まることを確信し、『民族協和』の満州国を精神的中核とする日本、朝鮮、満州国、中国等の協力により、その早期実現をはかるべきことを唱道されたのである。今日米ソ間に立って世界の政治的一体化、永久平和実現を勧奨し得る国際政治力の結集は、やはり石原先生の構想による他はないであろう。

石原先生はこのような平和的発言が各国の支持を得るためには、『都市解体、農工一体、簡素生活』の三原則により、人類次代文化に先駆する新建設を断行すべきことを力説された。これまたこんにちいよいよ輝きを増す政治の基本を明示したものといい得よう。

昭和初期の満州は、日本が全面撤退しない限り、張学良軍との間にいつどこで火を吹くか解らない一触即発の状況にあった。しかも、日本が全面撤退すればソ連の南下が必至であり、張軍はもちろん、国民党も共産党もソ連侵略に対抗し得るほど勢力を伸ばしていなかったのである。

石原先生は張軍が戦端を切るのを受けてこれを反撃し制圧する万全の準備をととのえていられたのに、板垣高級参謀らの急進派が先生の戦略を飛び越えて火蓋を切ったため、国際的論難が日本に集中する結果となった。

満州国も関東軍司令官の内面指導を撤回し、その完全独立をはかるべきだとする石原先生の熱願が容れられず、日本の植民地国家に転落した。しかし、ソ連の南下から東亜諸国を防衛しようとした先生の素志の貫徹されたことは、公正に確認されるべきである。

最近中国において、満州の地は漢民族を征服して清王朝を建てた満州民族の故郷であり(孫文の辛亥革命は『排満興漢』を旗印とした)、満州事変、満州建国までは侵略戦争でなかったとする歴史認識が生まれつつあると伝えられる。

石原先生が日中戦争、太平洋戦争に対する最大の反対者であったことは周知の事実である。先生を『十五年戦争の幕を開けたもの』と位置づける論者たちは、いつまでその謬見を固執するのであろうか。

いわゆる『十五年戦争』期を通じ、朝鮮民族、漢民族はじめ数知れぬ東亜諸民族が、平和者石原に心からの尊敬と信頼を寄せ、それが皇帝、大臣、村長、農民、兵士から中国の密偵に及んでいたことも、この際特筆大書しておきたい(入江辰雄氏著『石原莞爾と伊地知則彦』等参照)。

今年(昭和63)は石原先生の生誕100年に当たる記念すべき年である。

われわれ庄内人は、いまこそ平和者、石原の実像を全世界に知悉させ、その平和理想の検討を、声を大にして訴えるべきではあるまいか。

(筆者・武田邦太郎氏/1988年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

石原 莞爾(いしわら・かんじ)

旧陸軍中将。軍人ではあるが「世界最終戦争論」を唱え、世界の永久平和を希求した思想家でもある。 警察官・石原啓介の三男として日和町に生まれ、荘内中学入学、陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。日蓮への信仰を深める一方、ドイツに留学し、フリードリッヒ大王とナポレオンを研究。

日本、満州、蒙古、朝鮮の五族協和による満州国建国を指導。また、日本、満州、中華民国に提携による東亜連盟を主導する。 第二次世界大戦では東條英機と意見が合わず戦争体制を批判。戦後は遊佐町西山に移住し集団農場を拓く。西山には「都市解体」「農工一体」「簡素生活」を説いた三原則碑がある。

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