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郷土の先人・先覚7

菅原 常治

菅原常治氏の写真

私の旧制の中学生ごろといえば昭和一桁の初期である。当時の加茂港は山陰の庄内平野を羽越線が走りはじめ、幾百年続いた商港の夢も消え果て、漁港への転換期のまっただなかにあった。

凪の日などは朝3時か4時ごろ十幾隻もの単発の発動機船がけたたましい音を立てながら漁に出て行き、夜、赤、黄の光を点灯しながら帰港する、にぎやかな風景は私たち老人の脳裏に鮮明な風物詩みたいに残っている。

この発動機船を県下ではじめて導入し、沖合底曳漁業を創業したのが菅原常治翁であった。

翁は明治20年3月加茂港産物問屋の長男として生を受け、昭和48年に長い人生を静かに終えている。

翁がはじめて鳥取県より発動機船を導入し、底曳網漁業を経営したのは、加茂港の人たちがまだ商港への夢を追っていた明治44年の時であるから、翁がまだ24歳の青年期の時ということになる。

翁が経営した発動機船は「誠喜丸」という船名で17、8トンぐらいだったろうか。艫が四角ばった変てこな船であったと記憶している。翁が大正11年加茂機船漁業組合長に就任しているからその間経営は継続したのであろうが、結局失敗に終わったようであった。

この失敗が翁の人生にとって大きな打撃ともなり、転機ともなったとも思われる。経済的にも相当苦しんだ様子だった。

しかし、翁の失敗経験を踏み台にしてといっては言い過ぎかも知れないが、大正後期から昭和初期を通して、加茂の港は旧問屋衆が発動機船による沖合底曳網漁業経営に乗り出し、前記のようなにぎわいを見せるのである。

まさしく翁はいま風にいえばアイデアマンであり、先駆者であった。現在の近海の底曳漁業の不振の状態を翁はどう見て居られるだろうか? こんな時代にこそ翁如き人物を求めるのである。昭和24年に加茂町漁業協同組合長、同27年に山形県漁業協同組合連合会の会長をつとめた。

翁の戦後山形県の漁業の活躍はめざましく、組合員への経営資金、漁網、船の建造、無線、漁探資金の融通は、漁港加茂の機能を源泉とする活動であった。翁は釣りを愛し、将棋を愛し、決して大言壮語する型ではなく、温厚な翁であった。  「逝くものかくのごときか昼夜を舎かず」86年の生涯であった。

(筆者・秋野庸太郎 氏/1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

菅原 常治 (すがわら・つねじ)

庄内地方に初めて発動機船を導入して沖合底曳漁業を経営し、県内漁業のさきがけとなった。

海産物問屋の長男として加茂に生まれ、荘内中学を卒業後家業を継ぎ、共同出資で庄内初の発動機船「誠喜丸」を購入し沖合底曳網漁業に乗り出す。

一方、加茂漁業会長、加茂漁協組合長、県漁協連合会長など多くの役職を歴任し、水産の振興と漁村組織運動に尽力。

また、加茂水産高の創立にも尽くし、水産後継者の養成に努力した。

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