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郷土の先人・先覚104 庄内農民の記録を残す

後藤善治(明治11-昭和13年)

「明治二十六年元旦 (新)二月十七日快晴風ナシ 休業吹山等ニ散歩ス」「同二日 二月十八日曇天風ナシ 酒田ニ与助ノ米弐俵橇送リセリ」「同三日 二月十九日曇天北風アリ 休業蓑造リ」。善治が16歳の正月から書き始めた日記である。

後藤善治は本楯村大字豊原(現・酒田市)で一生を終えた一農民であるが、明治26年から病床に臥す前年の昭和9年まで、42年間にわたる日記を書き残した。

善治の日記は、農業総合研究所豊原研究会より『善治日誌』として昭和52年に発表、明治から昭和にかけての庄内農民の貴重な記録として学界から大きな評価を得た。研究所の宇佐美繁氏は『善治日誌』の序文において、「平均的農家層に生きた人の具体的名行動記録は、いまだその例をみないのではないか」とし、さらに「庄内農業の様々な歴史的な移り変わりを的確に知る」と評価している。

天候に左右される農業に従事する善治は、その日その日の気象状況を克明に記している。「明治二十六年三月十二日 (新)四月二十七日午前快天、午後曇リ天西風少シ四時頃ヨリ山瀬少シアリ 種ネセ、苗代拵(こしら)ヒ、出来テカラ田打ツ カラカラズ来ル」。

善治は明治三十年に作助家の若勢となる。「明治三十年三月五日 四月六日先ツ快天八九時頃曇リテ雨少シ降リ西風アリ 苗代ノ畔ホゲ、十時頃ヨリ中島谷地ニ肥カケ 其ヨリ直ニ酒田ニ行キテ肥取リ二樽 朝藁打」。

善治は明治31年に後藤丹蔵家に若勢奉公に入り、のち後藤家の婿養子となって、姓も伊藤から後藤に変わった。農業だけでなく、穀物類、酒類の販売等も行っており、明治45年の旧1月16日には自転車で酒田に行き、米の相場を聞いている。

下内町の長坂弥吉より酒、中町の中村より缶詰類、明治45年には本町の根上より自転車9台の仕入れ、他に縄、米、塩の仲買いなどの兼業の仕事にも積極的に取り組んでいる。「大正元年六月三十一日 八月三日曇天又ハ快天西風アリ 朝ハ宮前ノ道辺ヨリ草一負刈テ、朝食後塩引や焼酎鯨カンヲ売リ出ツ 上寺ノ方杉沢平津鹿ノ沢ノ方ヲ廻リテ売リ来ル」。後藤家は大正末に自作地1町6反、借入地1町9反、山林6町の大農家となっている。

「善治日誌」最後の5日間は、「昭和九年(旧)十二月二十六日縄綯(なわない)。二十七日馬デ肥引。二十八日馬デ肥引。二十九日餅搗(もちつ)キ。三十日馬ノ物切リ馬デ土引」。まさに生きた農民の記録である。

(筆者・須藤 良弘 氏/1988年12月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

後藤 善治 (ごとう・ぜんじ)

明治11年1月豊原村において、伊藤巳之助と芳の間に二男として生まれる。性格は几帳面で温厚、声を張り上げることもなかった。就寝前に机に向かい、本楯小学校3年時に成績優秀でもらった硯で日誌を書くのが日課であった。流行に目をつけるのも早く、当時流行のゴム長靴をいち早く家人に買い与えている。晩年病床にあっても稲あげなどの手伝いをしたという。昭和13年12月、60歳で死去した。

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