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郷土の先人・先覚118 童話作家 全国童話人協会を設立

安倍季雄(明治13-昭和37年)

安倍季雄氏の写真

大正から昭和にかけてのころ、久留島武彦とともに日本童話界の双璧といわれた安倍村羊(あべそんよう)の名を知る人も多いと思う。村羊はペンネームであり、本名は季雄といった。明治13(1880)年9月7日、安倍親名の三男として鶴岡天神町に生まれた季雄は、「筆濃餘理」(ふでのあまり)の記述で有名な幕末末期庄内藩の史家、安倍親任の孫に当たる。

7歳のとき塙という家の養子に入り、朝暘学校八坂町分校から高等科に進む。成績が良く英才と称されたが、家が貧しかったため卒業後は野沢活版所に文選工として雇われた。その後、藤島の東田川郡役所の給仕となり、さらに押切小学校、渡前小学校の代用教員を勤めている。

しかし、青雲の志止みがたく、北海道に渡って遅ればせながら函館中学校に入学し、これを卒業したのは明治36(1903)年、数えで24歳のときであった。

翌年、事情により養家を離れて旧姓に復し、間もなく鶴岡出身で慶応大学の教授をしていた田中一貞の招きで上京。「三田文学」の編集に携わる。

同41(1908)年時事新報に入社、後年には雑誌部長となるなど、昭和4(1929)年に退社するまで月刊雑誌『少年』『少女』の編集主幹として敏腕を振るった。この間、小説家・巌谷小波(いわやさざなみ)に私淑して、数多くの少年少女向けの物語や童話を執筆し、人気絶頂の童話作家としての名を高くしている。

時事新報を退社してからは、日本放送協会、講談社、毎日新聞などの嘱託あるいは顧問となり、その委嘱を受けて全国を講演して回った。その範囲は日本国内のみでなく、樺太、朝鮮や満州にまで及び、講演回数は戦後のものも含めれば1万回を超えたという。

終戦直前の昭和20年3月に妻を病気で失い、その4月13日には、東京大空襲で小石川区茗荷台にあった自宅を焼かれた。このため同月末に庄内の湯野浜温泉の亀屋ホテルに疎開。主人・阿部松五郎の好遇を受けて晩年をここで過ごすことになる。

しかし、創作意欲はいささかも衰えず、同27年72歳のとき、友人・久留島武彦とともに全国童話人協会を設立。後にはその会長となって随筆、小説、童話の執筆を続ける一方、各方面からの求めに応じて全国行脚の講演をしている。洋服を着用することがなく、いつも着物姿であったから、年老いても堂々たる風采は衰えを見せなかった。

同37年12月19日荘内病院で死去。1カ月余り前に行った松ケ岡本陣での講演が最後となった。82歳であった。

全国の多くの人々から親しまれた童話作家・安倍季雄は、郷里をこよなく愛して、次のようにこれを讃えている。

道行けば みな顔見知り物言へば みなくになまり うれしふるさと

(筆者・秋保 親英 氏/1989年2月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

安倍季雄(あべ・すえお)

童話作家。明治13年、鶴岡で生まれた。少年期を鶴岡で過ごしたが、その後北海道に渡る。日露戦争後上京して「三田文学」の編集に従事。明治の末ころから昭和の終戦に至るまで時事新報、日本放送協会、毎日新聞などに在籍して、少年少女向けの雑誌編集、物語、童話、小説の執筆に専念。その傍ら全国を講演して回った。終戦時焼け出されて湯野浜に疎開。その後も著述や講演活動を続ける。昭和37年82歳で亡くなった。著書は多く『本間光丘翁』、『偉人のあしあと』、『愛のふるさと』など70余冊に及んでいる。

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