文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚120 庄内地方の視覚障害者への教育に尽力

遠藤栄治(明治23-昭和30年)

遠藤栄治氏の写真

遠藤栄治先生は明治、大正、昭和の三代にわたる庄内に現れた視覚障害者の中では特に視力に障害がある人の教育に尽力され、その功績は著しいものがあり、構成に言い伝えられる偉大な先人の一人である。

遠藤先生は西田川郡大山町に生まれ。東京にある日本有数の官立東京盲学校に学ばれ、理療科の教師の資格を取り、九州福岡の盲学校の教師となった。その後、庄内の視覚障害者教育の先駆者たちから請われて鶴岡に戻り、大正5年9月10日、庄内盲人教育所設立と同時に理療科教師に就任。以来、山形県鶴岡盲学校のめまぐるしく変わった70年の教育の基礎を築かれた。

日本の視覚障害者の教育は明治の末から大正初期にかけて、各県に1校ずつ宗教家や行政、慈善家などによって設立されていた。当時、山形県にも山形、米沢、鶴岡の3地区に盲学校が設置された。その後、盲学校の統廃合が図られたが、昭和60年代まで県内に2校というのは、全国でも稀で、庄内地区の視覚障害者のため、視覚障害教育の大切なことを力説し、後輩の指導に尽力。社会に送り出した多くの優秀な教え子たちが、全国各地で羽ばたき、いろいろな分野の重要な位置で活躍している。

先生は大正5年の庄内盲教育所開設当初から昭和24年3月まで鶴岡盲学校に在職され、昭和30年8月24日この世を去られ、その人生の大部分を庄内の視覚障害者教育に捧げた。時には自室を開放して校舎の代わりにし、あるいは仏教経典を点字に直して、理療科教育の傍ら、精神教育もなされた偉大な庄内の視覚障害者教育の聖である。

(筆者・佐藤 安治 氏/1989年2月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

遠藤 栄治 (えんどう・えいじ)

視覚障害者教育の先駆者。明治23年12月8日、鶴岡市大山に生まれる。出生間もなく病気で失明。少年のことから針、あんまなどを修業した。東京盲学校師範部を卒業。福岡県の私立盲学校に一時勤めたが、帰郷して大山の母親の生家に針・灸・あんま業を開業した。大正4年秋、大正天皇御大典記念事業として庄内盲人教育会の創設に参画。翌年、同教育会が市内に開設した庄内盲人教育所の教員になった。県立鶴岡盲学校に改まった昭和23年に退職、視覚障害者教育の充実に献身した。このほか県鍼灸按マッサージ師会副会長など歴任し昭和30年8月24日64歳で死去した。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field