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郷土の先人・先覚124 川柳愛した名助役 高山樗牛賞を受賞

伊藤珍太郎(明治37-昭和60年)

伊藤珍太郎氏の写真

酒田市制功労者・伊藤珍太郎は、本間家に次ぐ富豪の伊藤家で、明治37年父・悦太郎の子として誕生している。祖父には宝生流謡曲に精通し、俳諧宗匠としても活躍した文化人・四郎右衛門(万寿)がいる。

鶴岡中学から上智大学独文科に学び、講談社の編集局に籍を置いている。当時大衆作家として名を成していた吉川英治、白井喬二などの作家の間を往来していた。後年、吉川英治(川柳号・雉子郎)のことについて次のような話を聞いた覚えがある。

吉川邸の応接間で原稿を待っていたが、朝になって渡されたのが“今朝もまた一字も書けず納豆汁”であったという。彼はこの句を読み、大作家の苦労を知り、一晩待った不快さもなく、吉川邸の門をあとにしたという。

その後、昭和13年大陸に渡り、満州国赤十字社に勤務していたが応召。終戦でシベリアに抑留された後、22年に帰国して養鶏を営みながら生計を立てていた。

やがて24年には公立酒田病院の動物飼育係として勤務していたが、上智大学独文科の学歴と伊藤家という毛並みの良さが認められ、32年には公立酒田病院事務長に迎えられ、手腕を発揮している。その後、人事課長を歴任して、34年小山孫次郎市長誕生とともにその識見力量を買われて助役に推薦されている。

以来小山市長とともに在職して市政に尽瘁(じんすい)、小山市制3期を支えた名助役といわれ、多くの功績を残している。大兵肥満で目玉は大きく、見るからに威風堂々の体躯であり、豪放な反面、緻密な頭脳を持っていた。とはいっても冷たさはなく、川柳を趣味とするユーモアを解する人であった。

助役を辞めた後は一時期酒田の本間病院常任理事を勤めている。晩年は随筆などを書いていた。著書は『庄内から出た力士』、『庄内の味』、『酒田の名工名匠』、『川柳集走馬燈』があるが、どれを読んでも格調の高い素晴らしい文章であり、読者に深い感銘を与えている。これも徹底した調査と資料を基本にした結果であるし、彼の人柄が文の中ににじみ出てくる。

前に述べた川柳のことに触れると、彼は“曽典太(そうでんだ)”の柳号を持っている。その由来は何にでも相槌を打つ肯定の意の方言である。作品も寸鉄人を刺す風刺や、生活の溜息、温かさなどあるものが多く、次に記してみる。

▽双方の後援会に入る義理

▽童心に決断があるすべり台

▽二三杯もう言論に自由あり

▽言葉にも表情がある電話口

56年高山樗牛賞受賞。60年8月、81歳で亡くなった。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1989年2月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

伊藤 珍太郎 (いとう・ちんたろう)

地方自治功労者。明治37年4月25日酒田生まれ。鶴岡中学から上智大学文学部に進み、卒業と同時に講談社編集局入り。旧満州国赤十字社を経て応召、シベリアに抑留され昭和22年に帰国した。酒田市の旧公立酒田病院事務長、市人事課長を歴任し、小山孫次郎市長の就任とともに助役となる。46年まで在職した。川柳を良くし号は曽典太。多くの著書がある。81歳で死去した。

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