酒田草創に関わりのあったとされる酒田36人衆を祖に持つ粕谷治良は、地域産業の発展に大いに貢献した1人であった。
慶応元年、庄内藩が鶴岡・五日町と酒田本町七丁目に生糸改役所を新設して、養蚕製糸の業を勧誘すると35歳の粕谷は各地の蚕業地を視察し、桑苗を購入して有志に植樹させ、事業の拡大に努めている。
明治6年、粕谷は酒田から飽海郡鵜渡川原村大字袋町(現・酒田市)に移住し同村亀ケ崎町の荒地を開拓。桑園を新設しヨーロッパ各地から桑苗を購入して試作、村民にも養蚕を勧めている。
内務省において輸出蚕種の品評会を行った時、粕谷の作った蚕種が、県下第2等となった。また官営の富岡製糸場が上州に開設されるや、長女・兼(文久元年生まれ)ら12人を工員として飽海郡から送り出している。なお、兼は明治10年に帰省し、山形県勧業課の製糸場で教師として活躍している。
粕谷は明治10年、県が開設した製糸授産所の製糸主任、同12年には勧業世話掛を拝命、さらに同年鶴岡新斎部の榊原十兵衛設立の座繰製糸場にも兼とともに参加した。
同14年に荒井良治らと鵜渡川原村蚕業社を設立し同村内の内川敷と下瀬官有地を開拓し、桑樹1万3000本を植え付けており、明治17年には飽海郡生糸改良世話掛となり、その後も蚕糸業の発展に活躍。同29年には飽海郡蚕糸業組長となっている。
養蚕以外の農業全般にも見識を持っていた粕谷は、同15年に米改良の問題を論じた耕作法書300部を印刷して、役場や有志者に配布し、各村々を巡回しては農産改良を説いている。明治17年山形県等四県連合共進会に、粕谷が出品した麦が3等に入賞、その後の各品評会でも、大豆・小豆、体菜・葱・甘藍等の受賞が続いた。収穫の多い馬鈴薯の苗を他人にも分与し、粕谷薯と称され、名声を博している。果樹栽培にも情熱を燃やした。
物産改良を進めるために粕谷は共進会開設を主張し、山形県勧業諮問会員、 種苗試作人、鵜渡川原村農事改良組合長、飽海郡農会議員など多くの役職にもついている。
粕谷は明治維新前は酒田の長人の1人であり、酒田町用金算勘役同雑用金諸払未届役、江戸城米瀬舟取締役等を勤め、荻野流砲術の免許を取り、戊辰戦争にも参加している。
粕谷の地域産業への情熱は、資産を失う結果となり所有していた広大な農園も人手に渡ったが、人々はその徳を称え、明治34年に碑を建立している。
天保元年8月、粕谷源吾の長男として酒田本町に生まれる。歴史ある粕谷家の33代目。養蚕と農事改良に尽力。琢成支校世話掛、鳴鶴学校事務掛、鵜渡川原地区の区長、村会議員なども勤めた。晩年眼を患い、明治32年自ら命を絶った。70歳だった。