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郷土の先人・先覚132 文化人 文壇で活躍し町政にも尽力

佐藤良次(明治4-昭和5年)

佐藤良次氏の写真

明治・大正から昭和初期にかけて活躍した文化人・佐藤良次は、明治4(1871)年3月旧荘内藩士・佐藤良作の二男として鶴岡で生まれている。子供のころ父母の酒田転居に伴い、酒田で育っている。学校は旧秋田町に建てられた琢成学校に学んでいる。当時、養父の転勤により、酒田に住んでいた鶴岡出身の高山樗牛とは同級生であったという。

その後、裁判所の給仕をして苦学、一心不乱に勉学に励んだ。そして明治24(1891)年には、酒田を訪れた当時一流の政治家・板垣退助、河野広中の講演で開会の辞を述べたのが認められて、秋田まで講演に同道したといわれ、そのころから弁舌や政治性、文学性など多彩な能力の芽が伸び出したのであろう。同じこの年、21歳で東京専門学校(早稲田大学の前身)政治科に籍を置き、その才能に磨きをかけている。

佐藤良治の残した業績は多くあるが、その中で特筆すべきものは、江戸後期の国学者で文筆家である上田秋成の事跡に傾注して、秋成の代表作『雨月物語』活字本を初めて世に出し、そのほか稿本『春雨草紙』などの自筆本や遺墨を酒田に紹介した功績は大きいものがある。

そのほか、文学面では、古夢の号で俳号を作り、華鈴会を起こして高浜虚子と交わったり、漢詩文では酒田の漢学者・須田古龍を師として漢詩などを作っている。

また、書画を好み、大正10(1921)年には酒田に来遊した画家で、詩人でもある竹久夢二の画会を開いたり、竹内淇州らと尚友会をつくり書画などの鑑賞を楽しんだ。それに自分も絵を描き、「蟹の図」は最も得意とした。

政治や文学では明治35(1901)年酒田新聞社に入社して主筆となり、政治評論や文芸方面などで活躍、一方、頭山満・犬養木堂らとも親しく、幅広い交友をしている。

それに明治43(1910)年から町会議員をつとめ、日和山公園の改造や酒田築港促進、最上川治水など幾多の事業達成に情熱を傾け、活動している。

ことに郷土史家として地方史に造詣が深く、町史編纂にも力を注いでいる。大正12年には『飽海郡会史』を発刊し、雑誌『木鐸』では主幹としてその責を担っており、政治・文学・芸術・郷土史など、これほど広く活躍した人は稀である。

昭和5(1930)年11月、60歳で亡くなった。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1989年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤 良次 (さとう・りょうじ)

明治4年3月25日、荘内藩士・佐藤良作の二男として鶴岡に生まれた。小さいころ父母に伴われて酒田へ転居、琢成学校では文豪・高山樗牛と同級生だった。東京専門学校政治学科に入学、上田秋成の雨月物語を世に出し、秋成の名を高めた。帰郷後、酒田新聞の主筆となり、論壇、文壇で活躍。犬養毅、高浜虚子など交際は幅広かった。町会議員として町政にも尽力した。著書に『庄内案内記』『飽海郡会誌』など。昭和5年11月4日、60歳で亡くなった。

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