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郷土の先人・先覚134 鶴岡を機業の町に 羽二重工場を創設

阿部蔵吉(嘉永6-明治39年)

阿部蔵吉氏の写真

初代蔵吉は鶴岡を機業の町に発展させた功労者のひとり。羽二重工場を創設した人であり、庄内地方の羽二重産業のさきがけといわれている。

この工場は明治28年に創設した共同荘内羽二重工場である。

蔵吉は朝日村上田沢(現・鶴岡市朝日地区)の出身。自宅は荒物屋。明治25年、40歳のとき東田川郡大泉村の村会議員になり、後に東田川郡会議員になった有力者である。

同28年に伊藤岩吉(明治4~昭和7年、羽前羽二重開拓者)と共同で、鶴岡の百間堀端に共同荘内羽二重工場を創設した。女子従業員100人余も就労した大工場である。

羽二重工場を始めたのはその前年、鶴岡で行われた農商務省技手・山口務の講演で、「輸出羽二重が将来有望な商品になる」ことを知り、それに大いに刺激された。

2人は京都、福井、金沢、桐生、足利などの先進地を巡って目で確かめ、綿密な企画のもとに藤島町豊栄の大地主・日向三右ヱ門の出資で、共同荘内羽二重工場をスタートさせた。これが後の羽前織物K.Kといわれている。

鶴岡織物工業協組で出した記録「羽前羽二重」に発足当時の模様が記載されている。「羽二重工場ができたというので、毎日見物客で大賑わい。事務員が見せ物小屋の説明師のように毎日説明に追われたが、ある日1人の見物客が帰り際にお礼に20銭を突き出し、『これは何だ』と事務員に一喝される一幕があった」。さらに今なら時間の励行が求められるが、当時は時間の不履行が甚だしく「定刻まで出勤する女子工員はほとんどいないので、やむを得ず定刻賞与というものを設けた。また時間になるとカラン、カランと鈴を振り、それを聞いて女子従業員が一目散に突っ走る光景がしばらく見られた」と述べられている。

鶴岡の絹織物業は、享和年間に時の藩主・酒井忠徳が、京都西陣の職人を招き、織物技術を習わせ、小禄の藩士の内職として奨励した。それ以来藩士たちの間に家計を補うため呉服屋の委託を受けて内職する人が多くなった。

その後、綾織細手織の需要が増え、販路はほとんど地場消費であった。同26年には荘内綾織工場ができ羽二重生産に先鞭がつけられ、当時の三宅町長は絹織物の振興を図るために鶴岡絹織物会を組織した。この年、鶴岡で開かれた第1回工芸品評会に出されたのは、絹織物が中心だった。

日清戦争や、庄内が大震災に見舞われたので地域経済が沈滞、絹織物も内地向けから海外向けに転向が余儀なくされた。そんな中で蔵吉は同34年に伊藤岩吉らと鶴岡羽二重同業組合を組織(組合員90人余)して組合長に就任。組合員に原料を供給し、製品販売、経営指導を強化、横浜市場における羽前羽二重の名声を高めた。農商務大臣功労賞を受賞している。

(筆者・須藤 良弘 氏/1989年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

阿部 蔵吉 (あべ・くらきち)

嘉永6(1853)年7月8日、上田沢の生まれ。旧東田川郡大泉村会議員、東田川郡会議員を歴任。明治28年に伊藤岩吉と一緒に、女子従業員100人余を擁する規模の大きい共同荘内羽二重工場を設立。後に鶴岡羽二重同業組合を組織して自ら組合長になり、業界発展に貢献した。また横浜市場で羽前羽二重の名声を高めた。同29年5月には永年の業績に対し農商務大臣から功労賞が授与された。同39年8月19日に54歳で死去した。

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