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郷土の先人・先覚137 川柳大家 社会事業にも尽力した知識人

荒木京之助(明治23-昭和21年)

荒木京之助氏の写真

川柳家として知られ、また実業家としての名をなし、ほかに多くの社会事業にも尽くした京之助は、酒田の素封家・荒木家の長男として明治23(1890)年に生まれている。本名・彦太郎、後に彦助を襲名、京之助は川柳号である。

庄内中学から第二高等学校、京都大学と学び、中学では剣道に励み、二高では弁論部に籍を置くなど多趣味の人であったが、その中で特に抜きん出ているのが大正から昭和にかけて、京之助のペンネームで活躍した川柳である。

川柳をはじめたのは大正10年ころからといわれている。その当時の川柳は井上剣花坊(けんかぼう)、阪井久良岐(くらき)らの巨頭が、文化、文政ころから狂句化した川柳を「初代川柳に還れ」の旗印のもとに、新川柳運動を展開していたころ、青年川柳家として京之助が登場した。

その後、剣花坊の知遇を得て、めきめきと頭角を現し、昭和2年には柳樽寺(りゅうそんじ)川柳会から『荒木京之助句集』が発刊され、序文の一節に剣花坊は次のように書いている。

「荒木京之助宇治がはじめて柳樽寺へ来られたのは、大正11年の秋だったかと記憶する。一見して若年ながらしっかりした人だと思ったが、これが山形県の素封家で青年実業家として有名な、酒田の荒木彦助その人だろうとは知らなかった。(中略)はじめて大正川柳の一投句家として現れた時、すでに既成柳人の目を驚かし、以来半年そこらにして大家の域に迫っている」。

そのほかに京之助の友人・野口雨情(詩人)も序文を書き、文の最後を次のように結んでいる。「昨秋、酒田に遊び、荒木氏におくりし民謡『米ぢゃ庄内港ぢゃ酒田 日和山まで船が来る』」。

多く残した句の中に“ありたけの指が光ってまだ欲しい” “巡業のビラを残して町を立ち"の2句は中山晋平が作曲、天童出身の佐藤千夜子が歌っている珍しい川柳である。

このように川柳に独特の才能を発揮するとともに、実業家としても活躍、酒田米国取引仲買人となり、米相場を動かした商人でもあった。また、社会事業家としては、光丘神社創建に尽力したり、光丘文庫の初代理事長をつとめ、同文庫に図書1850冊を寄贈した文化人でもあった。

だが、後年どうしたわけか、京之助はぴったりと川柳のペンを絶ち、専ら漢詩に精進したという。昭和21年6月に亡くなった。享年57歳。終わりに京之助の一句を記す。

群衆の一人になって 伸びあがり

(筆者・荘司 芳雄 氏/1989年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

荒木 京之助(あらき・きょうのすけ)

明治23年酒田市下内匠町に生まれた。豪商・荒木彦助の長男。荘内中学から旧制二高(仙台)、京都帝大に進んだ。酒田米国取引所仲買人として活躍。光丘神社の創建にも尽力し、また光丘文庫創立の際に多数の図書を寄付、初代理事長をつとめた。当時は代表的な知識人として知られ、川柳の大家・井上剣花坊とも親交があった。京之助は川柳名。剣道4段の剣豪でも知られ、自宅に荒木道場を開いた。本名・彦太郎。襲名して彦助も名乗った。昭和21年6月15日、57歳で亡くなった。

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