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郷土の先人・先覚164 川南砂丘の植林に成功

佐藤太郎右衛門(元禄6-明和6年)

佐藤太郎右衛門は、庄内砂丘地の植林、開発に多大な功績を残した1人である。

太郎右衛門の祖父・善五郎は宝永3(1706)年に広岡新田村(現・酒田市)309石余を開発。父の太郎右衛門は西茅原村・茨新田村(現・鶴岡市)の村民と共に翌年、広岡新田に移住、16戸で一村をつくり、肝煎役を務めている。

川北と同じく川南の砂丘地も飛砂の害がひどく、早くも浜中村(現・酒田市)では元和年中から植林を始めているが、それが成功をみるまでには長い年月がかかっている。

10代の太郎右衛門は、宝永4年に浜中村の与六、喜右衛門と共に御林守を命じられている。享保13年には太郎右衛門などの御林守が防砂林の盗伐監視や御林取締りの請書を出し、林の保安に当たっている。

開発されたとはいえ、当時の広岡新田村は、飛砂と排水の悪さで田畑の被害が大きく、村民が難渋していた。そこで太郎右衛門は自ら買い求めた苗木を畑に植え、それが生長すると弟の久太郎と相談し、風の強弱を考え、昼夜となく植え付けに専念したことから、諸木が根付くようになった。さらに享保17(1732)年には水害に悩むこの地一帯の村々を救うために、黒森村(現・酒田市)下とり烏巻渕までの新川を掘った。その結果収量が増え、拝借米などは全部上納できるようになった。

太郎右衛門は粟や楢を植え、その他吉野杉、秋田能代杉、木曾檜、能登松の種を自分の費用で取り寄せ、浜通りの村々や菱津山、加茂山にも植え付け、林としている。

延享2(1745)年京田通の植付人となり、同年広岡新田村に25間四方の竹やぶを作り、普請用の竹材を提供している。寛延2年には飯森山に松の植え付けを始めており、南は道地山より北は黒森境まで、長さ30町余、幅10町より20町までの不毛の砂山に諸木が繁茂するようになった。

太郎右衛門はさらに宮野浦村(現・酒田市)までの砂地全部の植林を計画し、特に坂野辺山の植林では風が広岡とは比較にならないほど強く、また、広岡から通うには遠すぎるとして、坂野辺の谷地、田畑を預けてもらって、ここに人家を建て、一村をつくり、植え付けしたいと願い出た。宝暦12(1762)年に許可され、太郎右衛門自身この地に移住、坂野辺新田村(現・酒田市)を開いている。

西郷組狢山より箸木山までの1000間余の植え付けも行っているが、植林はその後も続き、孫の唯右衛門の代の寛政12年までに植え付け本数が85万本余に達している。

(筆者・須藤 良弘 氏/1989年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤 太郎右衛門 (さとう・たろうえもん)

元禄6年、西茅原村に生まれる。道地楯主佐藤左衛門五郎広明の子、治郎右衛門は明暦2年茨新田村を開発。その子、善五郎は広岡新田村を開発。善五郎の孫、太郎右衛門は川南砂丘地の植林と坂野辺新田村を開いている。新田頭としての植林、開発の功により、明和元年に五人扶持、明和5年にはさらに五人扶持の加増と帯刀を許されている。帯刀御免の沙汰は病床で受けている。坂野辺新田移住の太郎右衛門を初代とする佐藤家は明治維新まで植林を続けた。明和6年11月29日に亡くなった。

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