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郷土の先人・先覚169 正しい生活118歳の長寿

大滝都矢(享保9-天保8年)

酒田市日吉町一丁目に曹洞宗の良茂山持地院がある。この墓地内に五輪塔の一番下部に当たる地輪(方形)に“寿(ことぶき)”と刻まれた珍しい墓がある。年代のせいで相当磨滅しているが、読んでみると正面の“寿”の脇に、松寿院千齢妙仙大姉、百十八歳、俗名大瀧ツヤ。側面に天保八(1837)年十月十日寂と銘記されている。

大滝都矢は鶴岡生まれであるが、生家や両親は明らかではない。成長して鶴岡の治郎助と結婚して酒田に移転、台町(現・酒田市日吉町)の持地院門前に住み、餅、菓子を商っていた。子供は4人いたが早死、1人だけ母に似て長生きした。

都矢は30歳のころ病にかかり、医者が手を尽くしてもさっぱり快方に向かわず、困り果てていたある日、店先に立ち寄った旅の僧が都矢の顔色の悪さを見て驚き、これは薬だけでは治らない病であるといい、「我に過中不食という方あり、これは朝夕二食のほかは萬(よろず)の食を禁ずる事也」とねんごろに教えて立ち去った。今でいうところの食事療法のことである。

都矢はその教えを固く守り、間食を慎み、寒中も湯を使わず、常に体を清潔に保ち、夜は早く床に就き、朝は早く起きて規律正しい生活をしたので、見違えるように健康になり、100歳を超しても白髪が少なかったという。

この文は郷土史家・池田玄斎さんが書いた随筆集『弘采録(こうさいろく)』(酒田市指定文化財・光丘文庫蔵)139巻のうちの127巻にある一編である。

都矢は108歳になった時、観音様の御利益で長生きできたと、扇に“寿”と書いて持地院の住職に感謝を込めて贈っており、寺宝として今に残っている。

そして『弘采録』には、都矢の最後の模様を次のごとく記している。

「長月(ながつき=9月)より、何んとなく仕事がとどこおり、万事ものうく臥(ふし)がちにのみありしかば、本間ぬし良医をえらびこしつれど、さらに苦しき所も侍(あ)らねば、病といふべきに侍ず(中略)と厚く謝して医を帰せじとかや、いく程もなく十月十八日、眠るがごとく身まかれり(亡くなること)」(原文のまま)。

富豪・本間家では都矢の病を案じ医者をつかわしたが老衰であるといい、礼を尽くして医者を帰らせ、10月18日眠るがごとく、天寿を全うされたという。

現在、持地院の庭園には都矢の寿影像と、先に記した扇の書を刻んだ都矢の寿碑が建立され、そのそばに都矢お手植えの見事な枝ぶりの松が、一段とその風情を添えている。

終わりに長寿を称えた玄斎の歌を記す。「百あまりおいのとし浪たちなれていきるかひある袖のうら人」

(筆者・荘司 芳雄 氏/1989年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

大滝 都矢 (おおたき・つや)

長寿者。鶴岡の生まれで、結婚して酒田の台町に転居した。持地院の門前に居住し、餅やお菓子を販売していた。若いころ病気になり、僧の指導で食事療法に努め、間食を避け、早寝早起きの規律正しい生活を続けた。天保8年に天寿を全うしたが、このとき108歳。亡くなったときの年齢については114歳という説もある。

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