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郷土の先人・先覚17

本間 孫四郎

本間孫四郎氏の写真

明治37年5月5日、西田川郡豊浦村大字由良(現鶴岡市由良)の漁家に生まれる。

少年のころから海を愛し、海に親しみ成長した。潮に焼けた赤銅色の顔は一見威容もあったが温顔で、話し上手で、大衆から親方として慕われた。漁業についての研究心が強く、漁業の開拓に情熱を燃やし、大正6年小学校卒業と同時に自己所有船の近代化と技術革新に取り組み、発動機付き漁船を導入し、日本海漁業の後進性を打破するため努力した。

大正12年には、樺太(現サハリン)に渡り、当地の機船底引き網漁業の創始者として新漁場の開拓に努め、その後千葉県銚子港に根拠を置き、この地の機船底引き網漁業を開発した。

その後、深海における未利用資源の開発調査に従事するとともに、小笠原近海のサンゴ採集、生息状態を調査研究し、戦後、農林省中央水産試験場の委託を受け、相模湾における深海魚の漁獲調査を実施するなど深海漁場の開発に努めた。

また、昭和33年には本県沖で集魚灯によるサンマ漁業の試験を行ったが、日本海には適しないことを知り、流し網漁法に切り替えて企業化に成功した。

昭和25年ころからは回遊性魚族に着目し、サバ、イワシ、ブリ等のまき網漁法の試験操業を行い、今日のまき網漁業の基礎を築いた。

昭和27年北洋サケ・マス流し網漁業が再開されるやこれに出漁し、3年連続全国第一位の漁獲量を挙げるとともに、日本海にもサケ・マスが回遊することを確信し、自費を投じて調査を行い、その後、自船に山形県水産試験場の委託船としての試験操業許可をとりつけるとともに、自ら乗船し、寝食を忘れてこれに没頭した。失敗につぐ失敗と多大の犠牲を払いながら、魚網の改良と漁労技術の改善に創意を加え、31年には、マス流し網漁業の企業化に成功した。そして、この漁具、漁法を広く公表し、今日の日本海マス流し網漁業を切り開いた。不振にあえぐ地元漁民はいうまでもなく、北海道から石川県にわたる1道6県の漁業発展に大きく貢献したことは特に顕著である。

また、昭和35年には夏季の魚閑期を利用して本県沖合の大和堆に進出することにより年間操業を可能にし、今日の日本海におけるイカ釣り漁業の基礎を作った。また、日本海のしけに適合した定置網の漁具、漁法を開発し、本県では初めて底定置網を導入、漁業経営の安定を図った。

このほか、知事の諮問機関の委員、団体役員としても活躍された。漁業の研究開発の功績により、山形県知事、千葉県市長、北海道から石川県までの知事、社団法人日本水産会長、鶴岡市長等の表彰を受けた。49年5月、漁業関係者は漁業先覚者としての翁の偉功をたたえ、山形県水産試験場の中庭に胸像を建立した。偉大な功績は、私達に漁業関係者の中に生きている。

昭和50年1月18日意義ある生涯の幕を閉じられた。

(筆者・山国勇作 氏/1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

本間 孫四郎(ほんま・まごしろう)

動力漁船の普及促進を図り、日本海マス流し網漁業の企業化に成功。

明治37年、豊浦村由良(現鶴岡市由良)の佐藤孫十郎の子として生まれ、小学校卒業後、加茂の本間家の養子となり、漁業に従事。 漁船に動力を導入。機船底引き網漁業の創始者として樺太(現サハリン)に渡り新漁場の開拓に当たる。また、サバ、イワシ、ブリのまき網漁の開発、サンマの流し網漁法に成功。本県で初めて底定置網を導入。マス流し網漁業の企業化やイカの年間操業に取り組み、今日の基盤を築いた。

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