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郷土の先人・先覚178 明治の酒田港の発展に尽力寄与

須田伝次郎(天保9-大正元年)

酒田船場町で明治期大きな廻船問屋を営んだ須田伝次郎は、明治の酒田港の発展に寄与しただけでなく、酒田の実業界で幅広く活躍した1人であった。

明治維新後の酒田港は、汽船が寄港するようになったものの、艀船(はしけぶね)の不備などから新潟港より運賃で不利になっていた。そのため明治13年に郵船三菱会社が開いた航路も中止のやむなきに至ったことから、伝次郎は郵船と相談して艀船25隻を新造改良、荷役人夫の質を高めて航路の維持を図っている。

しかし、冬季の10月から3月末までは船の寄港ができず、品物は塩釜、船川あげとなり、そこから陸送していたことから酒田の諸商人は難儀していた。

伝次郎は冬季は飛島に定期船が寄港するよう郵船に交渉。それがまとまるや、新潟県会議員所有の新潟丸40トンを購入。運搬事業組合の名で、飛島~酒田港間の運搬用に利用している。

飛島~酒田港間の荷物運搬事業も赤字となり、1年で組合が解散となるが、伝次郎は大阪に子の正三郎を送り、西洋型汽船85トン余、8馬力の広島丸を購入させている。これは明治24年のことで、山形県においてトン数のある船が登録された最初のものといわれている。

この船を亀ケ崎丸と改称して、飛島~酒田港間に就航させているが、冬季のみの航海であったので、もとより損失は覚悟の上であったという。明治28年3月、伝次郎は亀ケ崎丸を6000円で売却している。

伝次郎は目を海外にも向け、酒田港とロシアのウラジオストクとの定期航路を計画、明治24年汽船・護王丸を購入、正三郎をウラジオストク、朝鮮の元山、釜山などに3度にわたって派遣、定期航路の将来性を調査させているが、明治27年の庄内大地震によりその計画は挫折している。

当時、北海道産のニシンを使用していた藤崎村(現・遊佐町)近辺の収穫の良いことを知っていた飽海郡長が、酒田地方にもその普及を図ろうとしていたことから、農民に無利子延売を条件に、伝次郎は明治22年北海道よりニシン粕を移入、販売させている。

また、佐藤直中、野附友三郎らと鉄道敷設の運動でも寝食を忘れて働き、明治28年に酒田私設鉄道費用の徴収の仕事も受け持っている。

須田家は江戸期、たばこ、酒類の営業を行い、「東諸商人鑑」にも小間物荒物店・須田伝次郎の名があり、京都、大阪、江戸から仕入れていた。幕末期、酒田山王祭の神宿(とや)を2度も務め、明治期も須田伝次郎店として船場町に広大な屋敷を所有していたが、庄内大地震後、家運は衰退に向かった。

(筆者・須藤 良弘 氏/1989年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

須田伝次郎(すだ・でんじろう)

天保9年3月、酒田船場町に6代目伝次郎の二男として生まれる。8代目。町総代、町会議員、商業会議所常議員、酒田倉庫会社、食塩会社、酒田縄会社、荘内肥料会社、鶴岡水力電気会社、荘内銀行の各役員、酒田三品取引所理事などを務める。幕末期江戸で桜田門外の変や薩摩屋敷襲撃などを見聞。京都の富岡鉄斎を知り、鉄斎の絵を最初に酒田に紹介している。持地院の檀徒総代としても活躍、寺の過去帳の焼失を恐れ、それを書き写して奉納している。大正元年12月に亡くなった。

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