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郷土の先人・先覚179 柔術・棒術の達人、多くの子弟育成

岩瀬重周(天保10-明治36年)

岩瀬重周氏の写真

幕末から明治にかけて活躍した武術家。特に柔術と棒術が得意だった。荘内藩の役人、鶴岡の岩瀬万治宅で育ち、11歳から武術を修行した。武芸百般に通じ、柔術、棒術師範。

幕末は江戸で新徴組と江戸市中の警備に当たり、戊辰戦争では町兵隊を率いて秋田方面に出陣もしている。

明治維新を迎えて一時武芸が低迷したが、明治20年、鶴岡の八間町(現・昭和町)に同好者が協力して建てた柔術道場「講武所」の師範に請われた。この道場は別名"岩瀬道場"とも言われた。

岩瀬の武術は至心(ししん)流。門下生が岩瀬の口述をまとめた「柔術講義全」によると、至心流について次のように説明している。

「この柔術は捕獲するのが目的。なるべく物静かに取り押さえる方法を組み立てている」。

いわば至心流は、敵や犯人を物静かに捕獲する術だから、藩政時代は同心たちが習う武術。幕末に岩瀬の門を叩いたものは、全て下級武士と言われている。また、講武所の門弟は480人(明治33年現在)に及んだとされているが、その大部分が旧町方と下級士族であったと伝えられている。

明治35年には岩瀬の住宅が火災で焼失。しばらくの間、道場に仮住まいしていたが、弟子たちが師の不幸に同情してお金を出し合い、住宅を建ててやったという師弟愛もある。

柔術の指導は講武所だけでなく、荘内中学(現・鶴岡南高校)の柔道部を指導し、明治34年には、同校柔道部が発足した同28年以来初めて寒稽古を行ったエピソードもある。

寒稽古は20日間行われ、参加者は8人に過ぎなかったが、その年の土用稽古には20人も集まった。また35年3月の同校卒業式では、式後に余興として柔道・剣道の試合が行われ、このとき至心流の柔術と、棒術の型を披露している。

翌年の寒稽古には60人余の部員が集まり、岩瀬宅で鏡開きも行っている。

生徒には信望が厚く、実力もあったので、荘内中学柔道部の嘱託に予想されたが、ついに嘱託にはならなかった。その理由は定かではないが、講道館柔道が地方にも普及の兆しがあったので、そのためではないかと推測されている。

当時、講道館柔道が学校柔道として一般化しつつあり、同36年には講道館流柔道初段の尾石剛毅氏が、荘内中学に赴任、柔道を指導するようになった。

尾石氏は福岡県の出身。東京帝大から学習院に学び、卒業2年後に着任し、赴任した年の5月に行った稽古初めには180人も参加した。

講道館流柔道が鶴岡に根を下ろしてきたのと相前後して、岩瀬は同26年、任務が終わったかのように病没したという。至心流はその後も子弟に継承され、鶴岡の柔道の礎となった。

(筆者・須藤 良弘 氏/1989年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

岩瀬重周(いわせ・しげちか)

天保10(1839)年1月1日生まれ。鶴岡の荘内藩の役人・岩瀬万治の子として生まれたという説と、酒田に生まれ岩瀬家の養子になったという説がある。至心流柔術、竹生島流棒術の師範。鶴岡の八間町(現・昭和町)に開設された柔術道場「講武所」に、師範として招かれた。その後、竹生島流15代棒術宗家に。明治38年2月、荘内中学の柔道部設立と同時に指導者になり、多くの子弟を育成。講道館流柔道の普及で同36年に退任し、同じ年の9月9日、65歳で死去した。

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