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郷土の先人・先覚183 コシヒカリとササニシキの先祖をつくる

森屋多郎左エ門(明治25-昭和46年)

森屋多郎左エ門氏の写真

平成元年11月25日、県道余目砂越線とスーパー農道が交差する余目町廿六木(当時)地内で、水稲品種「森多早生」を育成した森屋多郎左エ門翁の頌徳碑除幕式が行われた。

森多早生は、短い稈(かん)・早生・耐肥性・多収・良質という“近代品種”第1号である「農林一号」の母親となり、同品種を通して、良食味品種の双璧とされるササニシキとコシヒカリが生まれた。

同式典で記念講演をした東北大学遺伝生態研究センター長・菅洋教授(鶴岡出身)は「歴史に“もし”は許されないが、もしも森多早生は育成されていなかったら、ササニシキもコシヒカリもこの世にはなかった」と述べ、森屋翁の功績をたたえた。

森屋多郎左エ門は、明治25年、巳之吉(後に多郎左エ門を襲名)とたきの長男として出生した。森屋家は田畑約3ヘクタール余を経営する自作農。余目高校や余目第三小学校の敷地付近に2ヘクタール余の水田があった。当時の農家としては3ヘクタールあれば「上農」で、かなり恵まれて成人した。

父・巳之吉は、当時の米調整機具「根本式籾摺臼」の開発に携わっていたので、正助(多郎左エ門の幼名)は若いうちから“鍬頭”として稲作に当たった。生まれつきの研究熱心は、当時の長稈で、収量性にも不安定な水稲品種の改良を志し、「東郷二号」の変種から「森多早生」を創選したのである。

「農林一号」は、良質米として著名な「陸羽一三二号」と「森多早生」との交配によって育成されたが、その良い形質は、「森多早生」の“血”がより多いといわれている。それほどの名品種であったにも関わらず育成者、品種名が誤り伝えられ、やがて忘れ去られようとしていた。

まず育成者。町役場の係員が「22歳の若者がそんなに優れた品種をつくるはずがなかろう」と、父・巳之吉を育成者にしてしまい、品種名も、森多が森田と記載され、「森田早生」が「農林一号」の親として広く流布されてしまった。

この双方の誤りを正したのは、正助と若いころから親交のあった、故佐藤東一さん(余目町名誉町民)であった。これが菅東北大学教授や、東大名誉教授で酒田市山口植物育種センター長である山口彦之博士ら学者の尽力で、東北農試栽培第一部(当時・陸羽支場)の交配・選抜の系統まで“追跡”され、陸羽支場に渡った段階ですでに「森田」と誤られていたことが分かったのである。

同じ余目町で創選された「亀ノ尾」は陸羽一三二号から農林一号を通してコシヒカリに。また、東北二四号からササシグレを通してササニシキにそれぞれ“血”が流れており、奇しくも同町内で育成された2品種が改めて脚光を浴びることになった。

正助は、「森多早生」を創選した翌大正5年、「萬石」の変種から「報徳」、大正10年には森多早生の変種から「満月糯」を育成している。正助は、「餅が大好物で、一年中毎日食べても飽きなかった」(『森屋翁頌徳記念誌』、佐藤吉彦廿六木集落史編集委員)といわれているから、おいしそうに「満月糯」を食べたことが想像されるし、餅質の優れた品種であったろうと思われる。

燻炭焼き機を考案し、燻炭を使った稲作研究を行ったり、廿六木地区一の堆肥舎を造り水田の地力増進に努めたり、正助の農事への情熱は晩年まで衰えることがなかった。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1989年12月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

森屋 多郎左エ門 (もりや・たろうざえもん)

農事功労者。明治25年12月1日、東田川郡余目村(現・庄内町余目地区)廿六木の巳之吉の長男として生まれた。幼名・正助。若いころから農事に熱心で、大正2年に水稲品種「森多早生」を創選。これが現在の銘柄品種の双璧とされるササニシキ、コシヒカリの先祖となった。このほか「報徳」や「満月糯」も育成。燻炭焼き機なども考案するなど農事改良に尽力した。昭和46年4月8日に亡くなった。

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