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郷土の先人・先覚189 橋梁などの設計も 学者肌の研究家

高橋巌太郎(文久3-昭和13年)

建築家・巌太郎は文久3(1863)年3月、鶴岡市泉町に住む善宝寺お抱え棟梁・山本佐兵エの長男として生まれ、明治7年大山新民学校を卒業、同9年、16歳で当時名棟梁として知られていた高橋兼吉に弟子入り。そして兼吉に見込まれて長女・安江と結婚。兼吉の右腕として働くようになった。

巌太郎の履歴を辿るとその作品は兼吉の作品と重複している。しかし、兼吉は施工を担当、巌太郎は設計をしたとみられ、設計監督としての名前が残っている。和風建築としては深山神社、由豆佐売神社、荘内神社などの設計、洋風建築の最初の設計には旧鶴岡警察署があるが、そのころから諸官庁(山形県・東西郡役所・町村役場)の公吏として設計監督についていたとみられ、巌太郎自筆の履歴書にある。驚いたことには、明治26年に内川の開運橋の設計をやったとも書いてある。建築だけでなく、土木、橋梁などにも造詣が深かったことがうかがわれる。

兼吉没後の明治27、28年ごろからは、山形県吏として荘内中学校、飽海郡役所などがあり、また大蔵省の嘱託として鶴岡葉煙草取扱所の新築工事の設計に従事した履歴もある。明治32年には内務省の造神官技手として伊勢神宮の式年遷宮に従事し、家族とともに東京に移り住むようになった。

このころより日本最初の建築史家、米沢市出身の工学博士・伊東忠太先生(1867-1954)の指導を受け、全国の官・国弊社の造営や保存修理を行うようになった。

明治40(1907)年に退官したが、請われて大正2年に再び内務省に入り、明治神宮などの設計に関与した。

兼吉は卓越した技能者で、その養子の巌太郎は学者肌の建築家であった。昭和13年にその技術を惜しまれ3月18日に一生を閉じたのである。

(筆者・大沢 力 氏/1990年1月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

高橋巌太郎(たかはし・いわたろう)

建築家。文久3(1863)年3月12日生まれ。名棟梁の高橋兼吉に16歳のとき弟子入り。見込まれて婿養子になった。設計、工事監督を担当し、鶴岡公園の荘内神社湯田川の由豆佐売神社、旧鶴岡警察署など名の知られた地元の社寺などを設計した。県の造神宮技手を歴任して明治34年に東京へ移住、全国各地の神社造営の重要工事に携わった。昭和13年3月18日、76歳で死去した。

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