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郷土の先人・先覚19

阿部 武雄

阿部武雄氏の写真

作曲家・阿部武雄自作の≪阿部武雄年譜≫には≪西歴(歴は原文のまま)一九○ニ、明治三十五年一月四日山形県西田川郡湯の浜温泉亀屋に生る≫とある。しかし、生後間もなく両親は離別、再婚した母に伴われて横須賀に居を移したが母が病死したので、祖父母と石巻に転住。まだ小学生という頑是無い子供であるのに、町役場の給仕として働き生活の辛酸を舐めていた。

これはその片鱗にすぎないが、とにかく、彼の人生航路は幼にして既に想像を絶する苦難の連続だったのである。だが彼は音楽への天稟のしからしむるものあるは否めないが、その道一筋に、壮絶な生涯を代償とする、命をかけての傾倒が、歌謡曲界五指を屈する大作曲家としての地歩を築きあげた。

昭和初期を境に頭をもたげ出し、次第にその様相を深めていた不況、加えて、きな臭い軍国調の重圧がじわじわと迫って来ていた頃、軍歌「戦友」さえも厭戦的だという理由で、当局は禁止した。

そんな灰色の重苦しい中で「国境の町」「裏町人生」「むらさき小唄」「流転」「おしどり道中」「妻恋道中」等々、数々のヒットメロディーが矢つぎばやに世に出た。当時、阿部武雄は、もはや、庶民の偶像的存在でさえあった。

しかし、とうとうとして流れて止まぬ時代の風潮、世相の移ろいは、作曲界の鬼才と謳われた阿部武雄の、銀座の街を飄々と、愛器ビオロンを抱えて流し歩く姿に、哀燐をこめてではあるにしても、目をそらす向きもあった。華やかなその世界で、財を積み、功成りとげた人士に抱く情感とは別の、親しみと憧憬の想いが、私達の胸を衝きあげてくるのである。

なお、彼の自作の年譜について、紙幅の許す範囲で拾遺させて頂く。最近読んだものの中に(書名もその執筆者の名も思い出せないが)≪寺山修司が自身で編集制作したという年譜には、おどろくなかれ幾通りかの年譜がある。それをいいとか悪いとか、あげつらうのではない。彼自身、踏みしだして来た己れの人生を、一つのドラマとみなして云々≫という指摘があった。

≪阿部武雄年譜≫もあるいは、事実にもとづかない部分があるのかも知れない。それを裏打するかのように、異説をとなえる向きも跡を絶たない。だがその真偽を判断するに足る資料が乏しいわけであって見れば、私は今後も彼自作の年譜を一応の一級資料として、作曲家・阿部武雄の実像を追跡して行きたいと思っている。

氏の年譜の体裁はコクヨB4四百字詰原稿用紙全紙を18区画に、きちんと区分けし、その1区画毎に、1年分を達筆の細字で、びっしりと書き込んだものである。

(筆者・富塚喜吉 氏/1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

阿部 武雄 (あべ・たけお)

放浪の人生を過ごした作曲家。

明治35年湯野浜に生まれ、幼いころ両親が別れたため、母に連れられて各地を転々と移り住む。13歳でバイオリンに親しみ、東洋音楽学校を卒業。神戸オリエントホテルバンドマンとして就職。以来、楽団の楽士として全国の劇場、映画館を興業して歩く。ポリドールレコード入社後、「雨の大川端」の作曲に始まり、昭和9年の「国境の町」が大ヒット。「むらさき小唄」「お柳恋しや」「妻恋道中」「流転」「裏町人生」「おしどり道中」などを作曲した。

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