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郷土の先人・先覚196 鶴岡が生んだ竹塗りの名工

八幡玉清(明治23-昭和26年)

鶴岡を代表する伝統工芸の一つ「竹塗り」の考案者・阿部竹翁が育成した竹塗りの名工である。今でも各地に多くの作品が残っている。

鶴岡市大字大広(旧上郷村)の農業の家に生まれた。無邪気な子供であったが、11歳のときに右足関節骨膜炎にかかった。それがなかなか治らず、気の毒に膝下を切断せざるを得なくなり、15歳のときに切断した。

家業の農業を継ぐ立場にあったのだが、足が不自由では農作業は大変だろうと、家業を弟に任せ、その代わり何か手仕事を、と写真屋を志した。

いったんは大山の写真館へ弟子入り。写真家になることを誓ったが、足が不自由では何かと不便、と「写真屋は自分に合わない」と間もなく辞め、知人を通じて鶴岡の阿部竹翁(三光町)に弟子入りした。

小さいことから凧絵を描いたり、書道を得意とし、造花も作っていたので、手先が器用なことと、美術の才能も天性のものがあったのではないかと想像され、むしろ塗り師の方が性に合っていたのかも知れない。

19歳で弟子入り、真面目一方で技能を早くマスター。21歳で塗り師として立派に独り立ち。自宅に帰って営業を始めた。

作品は下駄、盆類、硯箱、机、床飾りなど多彩に渡っているが、その中心は何といっても竹翁直伝の竹塗りである。父子2代にわたって玉清に木地を納入していた大広の志田善一さん(県、市卓越技能者)は、「一見、在郷のダダだったが、知識人の風格があった」と語っている。

作品に対しては厳格で、自分の気に合わない木地は修正させ、妥協することはなかったらしい。

日本漆工会に所属し、漆工協議会へ毎年のように出品。明治44(1911)年に「錆竹塗煙管筒(さびだけきせるつつ)」を出品して、3等賞を受けるなどした。いつも入賞していたようである。

塗工として、また竹塗りの第一人者として一流だが新しい漆工芸技術を習得することも熱心。昭和9年から11年にかけては、沈金、新蒔絵(まきえ)、輸出向けの漆器製作法の講習に足が不自由な身にも関わらず受講。また東京で展覧会がある度に上京して新技術を吸収することに努め、戦時中は「技術保存者」の指定を受けた。

まだ戦後の24、25年ごろ、海外向けの「金体(きんたい)漆器」の大量注文を受け、市内の漆工を動員して共同作業、自宅に建てた土蔵造り2階建ての仕事場は活気にあふれていた、と志田さんは語る。

金体漆器は、木地のかわりに金属製の素地を使い、その上に漆を塗ったもので「サラダボウル」に最適と人気を呼んだという。

仕事の“虫”であり、職人気質。仕事場には常に3人程度の弟子が働いており、生涯を通じて育成した弟子は十数人。この中には名工といわれるようになった人もおり、竹翁から習った竹塗りの技術を弟子たちに伝えた。61歳で亡くなった。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1990年2月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

八幡 玉清 (やはた・ぎょくせい)

竹塗りの名工。明治23年8月7日生まれ。鶴岡市大広出身。幼名は清太。右足が不自由なため家業の農業を継ぐのは困難だ、と一時写真屋を志し弟子入り。しかし、その後、竹塗りの考案者・阿部竹翁に弟子入りした。21歳のときに鶴岡市大広の自宅に帰って独立。作品は盆、硯箱など多彩。特に師である竹翁直伝の竹塗りを得意とし、戦時中は「技術保存者」に指定された。多くの弟子を育て、竹塗りを継承した。昭和26年10月1日、61歳で亡くなった

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