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郷土の先人・先覚197 多くの共感与えた歌人

白幡浩蕩(生年不詳-大正14年)

白幡浩蕩氏の写真

歌人として多くの同好の人たちに親しまれ、読む人が共感を覚えるような素晴らしい作品を数多く発表した白幡浩蕩は、酒田の米屋町(現・一番町周辺)で酒造業を営む家で生まれた。白旗彦太郎が本名で、浩蕩はペンネームである。

少年時代から文学を好み、明治31(1898)年、鶴岡の荘内中学に入学したが、中途退学をして上京、製図を仕事として働きながら、生則英語学校の夜間に通い苦学した。ところが同40(1907)年に両親の希望によってやむなく帰郷している。

故郷に帰った後は耕地整理組合事務所に勤務している。その傍ら短歌の道に情熱を傾け、持病の耳疾(耳の病気)にもめげず、筆談をもって多くの短歌を作り、歌人としての地位を築き上げ、妻は饅頭屋を営んで生活を支えたという。

後年所属した「創作社」のアンケート"将来の希望"の項に浩蕩は次のように書いている。

「文学あるいは書道によりて自己を芸術的に仕上ぐること…(中略)…私は小さくとも何か一つ磨きあげねばとても死にきれぬ」

浩蕩の師である若山牧水は、平易な浪漫的作風で旅と酒をこよなく愛した人で「創作社」の主幹として歌誌『創作』を発行している。酒田にも訪れ、紀行文『羽後酒田港』、『北国紀行』の中で酒田のことを興味深く書いている。その一節が日和山公園の文学の散歩道に碑となっている。

「創作」はいったん休刊しているが、復刊後の『創作』に浩蕩は同人に加わり牧水と親交を結び、創作者の全国大会などにも出席している。

その後、酒田では荒木京之助、村田としを、竹内唯一郎、佐藤北冠郎らが『群像』という文芸誌を発行、浩蕩も仲間に加わっている。次に群像の中で私の記憶に残る2首を記す。

・酒つくる家に生まれき酒つくる町に来りて思ふこと多き

・晴るる日を松の林に風ありて裏返り葉の光浜ぐみ

こうして多く歌を発表して同人として重きをなしている。

亡くなったのは大正14(1925)年44歳の若さだった。大正15年7月発行の『群像』は追悼号として歌人・浩蕩を偲んでいる。その中で同人の佐藤北冠郎は次のように書いている。「…いぢけた心のみじんもない崇高な生涯を送ってゆくことの出来たのは、その疲れた魂に打込む偉大な芸術の力があるためである…」。また牧水も創作誌上に「浩蕩白旗彦太郎君の死」を書き歌歴を称え、なお社友に呼びかけ弔慰金を集めて浩蕩の夫人に贈り、その一部で善道寺に浩蕩の歌碑を建立している。

・うごくとも見えぬしらほのいつしかもありどを換ふ(浩蕩)

(筆者・荘司 芳雄 氏/1990年2月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

白幡 浩蕩 (しらはた・こうとう)

歌人。酒田の米屋町の酒造業に生まれた。幼名・彦太郎。旧制荘内中学を中途退学して上京した。しかし、両親の希望で帰郷。耕地整理組合事務所に勤務の傍ら、短歌を深めた。酒田にも何回か訪れている若山牧水が主宰する「創作社」の同人。それ以来作歌に情熱を傾けた。持病の耳疾によって筆談だったが、それを克服して多くの作品を残している。牧水の努力で歌碑が建立された。大正14年44歳で亡くなった。

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