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郷土の先人・先覚20

高山 樗牛

高山樗牛氏の写真

高山樗牛、本名・林次郎は旧庄内藩士斎藤親信の二男として、明治4年1月10日鶴岡の高畑町に生まれた。

斎藤家直系の後裔が今は東京に移り住む画家の斎藤求氏であり、氏は樗牛の兄の子にあたる。屋敷は渡部酒店、若林医院の一帯。筆者が生まれ育ったのは泉町の新山田圃のほとり、斎藤家即樗牛屋敷とは咫尺(しせき)の間にあった。往時は江戸時代生まれの人々がまだまだ健在で、転封令撤回後の城下のお祭り騒ぎや神田明神の祭礼の賑わいにも劣らぬ盆踊りの様子などが折にふれて口の端にのぼっていた。そんな話のひとつ。「林次郎ちゃは疳の強ェ子で、転んで起ごしてやってもまだ転ぶなだけど。ひとりで置ぎねば気ィすまねぐで…」あるいはまた「天子はんさ綴方読んで聞がせだでもの。なんぼが頭良がったもんだが…」明治天皇巡幸の折、酒田で小学生を代表し奉迎文を読んだことの語り伝えであった。

林次郎は2歳の時、新土町の伯父・高山久平の養子となり、養父の転勤にともない山形、酒田と移住、福島中学校、神田の東京英語学校、仙台第二高等学校を経て東京帝国大学に入り、29年に文学部哲学科を卒業する。

二高在学中、今は東北大学に受け継がれる「尚志会雑誌」の前身「文学会雑誌」を創刊、「文学及人生」等を執筆、「山形日報」にゲーテの訳稿「准亭郎(エルテル)の悲哀」を寄せる。有名な「滝口入道」は帝大生の折、読売新聞の懸賞歴史小説に応募入選したもの。平家物語に材を取る悲恋の物語は哀感を湛えながらも充分に華麗であり、青年子女の心を捉えたであろうことは推測に難くない。以後、樗牛の筆は小説を離れる。発表誌は「帝国文学」「太陽」等々。また、「日本主義」を創刊してキリスト教、仏教等伝来宗教攻撃の論陣を張る。二高教授約半年、法学博士・杉享二の次女里子と結婚。坪内逍遥と交えた史劇論争は文壇の話題をさらう。33年にはヨーロッパ留学の機会が訪れるが胸部疾患のため断念。ニイチェ哲学に傾倒し、本能の満足を絶対とする「美的生活を論ず」では独特の張りのある文体と白黒明解な論旨ともども広く青年層の共鳴を得る。

死の前年帝大講師となり鎌倉に移住する。ここは日蓮が「立正安国論」をかざして既成の宗派に挑みながら日蓮宗を興した地。それまでは仏教を排撃していた樗牛も病い進むにつれて「日蓮上人とは如何なる人ぞ」と思案を深めながら次第に日蓮主義に傾いていく。

没年は明治35年12月24日、弱冠32歳。夜明けの時代、その筆は多岐にわたり、美学、思想、文学批評、文明批評等各界に強い光芒を放つ明星であった。清水市の龍華寺に眠る。全集の出版前後3回。郷土人の研究書としては工藤恒治氏の「文豪高山樗牛」があり、また笹原儀三郎氏のエッセイはその著「ふるさとへ」におさめられる。鶴岡公園の文学碑と胸像の前にある墓石も同氏の手によって持ち帰られたもの。姉崎嘲風の筆になる嘲文に曰く。「文は是に至りて畢竟人也、命也、人生也・樗牛」

(筆者・畠山 弘 氏/1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

高山 樗牛 (たかやま・ちょぎゅう)

明治の偉大な文学者。

明治4年、斎藤親信の二男として高畑町に生まれ、2歳の時新土町の高山久平の養嗣子となる。養父の転任に伴って山形、酒田、福島、東京と移り住み、仙台二高から東京帝大哲学科に入学。在学中から「樗牛」の号で校友誌に文筆。読売新聞の懸賞募集で、小説「滝口入道」が首位入選し注目を浴びる。卒業後は一時、仙台二高の教授となったが、文壇誌「太陽」の文芸主任となり、主として評論で名声を高める。東京帝大講師となるが肺を病んで32歳の若さで死亡した。

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