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郷土の先人・先覚200 庶民に学問広めた 偉大な儒学者

大森子陽(元文3-寛政3年)

鶴岡市睦町にある明伝寺(真言)の、山門から入って右側、あまり目立たない塀際に「越後故處士大森子陽先生須髪碑」と彫られた古い石碑が南面して立っている。

高さが118cm(2段の台石を含めると163cm)もあり、銘が3面にびっしりと合計721文字の漢文で刻まれたこの碑は実に立派である。

これは鶴岡や近郷の人々に学問を広め、この地で惜しまれながら亡くなった儒学者・大森子陽の遺徳を偲んで、門人・知人らが寛政7(1795)年に建てたもの。碑文を作り、これを書いたのは、子陽が親しく交友した九州島原藩の儒官・盤瀬(いわせ)行言(1731-1809)だった。

大森子陽は歌人として有名な僧・良寛と同郷、しかも良寛は若いころ子陽に儒学を学んでいる。越後は早くから良寛研究の盛んなところで、たまたま昭和31年ごろに、寺泊町の当新田というところに子陽の墓があることが分かり、そのころから子陽の研究も活発になって貴重な関係史料も見つかっている。

ところが、子陽の事績をもっとも簡潔に伝えるこの須髪碑(「須」は顔のひげ)の所在地である鶴岡では、ほとんど子陽のことが知られていない。甚だ残念なのでこの際碑文を直訳し、さらに史料によりいささか補筆することによってこの人を紹介することにした。

大森子陽先生は本名を楽、字(あざな)を子陽といい、越後(新潟県)蒲原郡地蔵堂の人である。しかし、先祖の出身地ははっきりしない。

後醍醐天皇の御代、伊予(愛媛県)に大森彦七盛長という人がいて、剛勇で知られたことが歴史書に書いてあるが、先生はその末裔だと伝えられる。盛長の十数代目の子孫を直周といい、直周の子が直好、直好の子が子陽先生である。

子陽先生は幼いころ僧・大舟(蒲原郡永安寺の学僧1706-1787)のもとで学問を学び詩を作るのが巧みであった。

壮年になってから江戸に上り、宇佐美しん水(松江藩儒官、荻生徂徠門人1710-1776)、大内熊耳(ゆうじ、唐津藩儒官、荻生徂徠門人、1697-1779)、松崎観海(丹波篠山藩儒官、太宰春台門人、徂徠学)、渋井太室(たいしつ、佐倉藩儒官、井上蘭台門人、徂徠学、1720-1788)、細井平洲(尾張藩儒官、米沢藩主上杉鷹山の師、折衷学派)と、有名な儒学者らに学んで、遂には長州藩の儒官・滝弥八先生(号は鶴台、服部南部の門人で海内無双の才子と称された。徂徠学、1706-1787)に仕えて門人となり、一途に勉学に励んだ。

学業を終えて帰郷したのであるが、間もなく父の死に遭い、師とした滝先生も亡くなったので、それから江戸に上ることもなく、時々私(この碑文を書いた盤瀬行言のこと)らと手紙のやり取りをするのみになった。これは思うに、子陽先生が江戸に居たころの風俗一般が軽薄に流れており、文学を嗜む者はうわべだけの文章を書き、あるいは儒者ぶるだけで見かけ倒しだったのを見て、常に心を痛めていたことによるのではなかろうか。

子陽先生は安永6(1777)年夏のある日、気持ちを取り直して郷里を出発、羽州の象潟や奥州の松島という名勝地を遊覧して大泉(庄内鶴ケ岡)に赴いた。この地で田中朝陽(大山の酒造家、1734-1799)や僧・天真(経歴不詳)に出会い、意気投合して1カ月ほど留まった。鶴ケ岡には柏倉要卿(文人池田玄斎の大叔父、1725-1798)という理解ある藩士がおり、先生の人物を見込んで家を求め、これを提供の上優遇した。そのため先生も義の深さに感謝してここに居を定めたので、土地の多くの子弟は挙げてその教えを受けるようになったのである。

鶴ケ岡に某という心良からぬ役人がおり、先生はこの人を一見して、必ず失敗するに違いないといっていたのだが、果たしてその言葉通りとなった。

私は不才だが、かつて読書を通じ先生と付き合いをした。先生は、分からないことがあればどこまでも訳を調べてはっきりさせ、それは常人の思い及ばぬほどであった。

性格として、うわべだけで物事を受け入れることができず、少しでも不安があれば中途半端な妥協はせず、納得ゆくまで原因、理由を追究した。他人に善行があればいつまでもこれを褒め称えたが、間違いがあれば面と向かってきつくこれを戒め、その後は一切この事に触れなかった。そのために人々は先生を敬愛したが、いたずらに馴れ馴れしくするようなことはなかったのである。

先生が帰郷するとき、私は次のような序文を作ってこれを贈った。すなわち、あなたは直情径行(自分が正しいと思ったことは、相手の思惑などを考えずにそのまま実行すること)の性格だが、このままでは徳のある人として不適当であろう。しかし、礼儀、作法が正しく守られているならば、直情径行だからといって必ずしも非難するには当たらないかもしれない、と。それ以来先生は深く反省してこれを胸に納め、軽はずみな言動を取るようなこともなく、物事を処理するに当たってはいつも礼儀正しかった。

先生は学問に励むかたわら医術も心得ていて、頼まれれば薬を調合して与え、たびたび効能を現すことがあった。

先生の著作には三峰館集若干巻・孟子逢原一巻・老不知言十二巻があるが、いずれも書き終えていない。

酒田の竹内伊右衛門という家から妻を迎えて男子一人を挙げ(一説によれば先妻の子ともいう)、名は宗晋(そうしん)、字を悦之といった。先生はのちに妻と別れたのだが、再婚はしていない。このため悦之は乳母の手で育てられ、わずか9歳で経史を暗誦し、詩を上手に作るなど父に似て才能があった。

そのころ松山大年(大山の医家、1763-1818)という者がおり、この人は子陽先生の門人であった。いつも恩義を感じていたので、悦之を自宅に引き取り、甥や姪と同様に面倒を見て医学を勉強させた。

子陽先生は元文3(1737)年、越後に生まれ、寛政3(1791)年5月7日、鶴ケ岡で亡くなっている。享年54であった。柏倉要卿は供物を厚くしたうえ、遺骸を郷里越後に送り届け、先祖の墓の傍らに葬った。

鶴ケ岡の門人らは先生を追慕するあまり、その顔ひげと髪の毛をもらいうけてこれを埋め、墓とは別に石碑を建てることにしたのである。田中朝陽が手紙で私に、碑文を作ってくれと頼んできたので承諾しておいた。

たまたま私の郷里島原で国を挙げての事件があって、折から幼い娘を亡くしてしまい、その後藩命を受けて西に赴くということもあったので、約束を果たさぬまま今日に至った。

先生の墓地に植えた木はひと抱えもあるほどに伸び先生を葬ってから久しく経ってしまっている。本当に悲しいことだ。

思えば先生は亡くなる三日前、自ら遺書を認(したた)めて、遺子(悦之))と遺著を自分に託して言うには、『悦之にもし素質があると思われるならば教育して欲しい。著述のうち役に立つものがあったら残し、不用なものは捨て、焚いた方がよいと思うものは焚いてもらいたい』と。

間もなく病気が重くなって亡くなられたのであるが、先生のありのままで飾り気がないことは以上の通りであり、その日常の生活態度を知ることができる。それで、この碑の末尾には次のようにまとめて書くことにしよう。

先生は皆のお手本となる人であった。このように大成させたのは誰か、それは滝鶴台先生である。特に親しく交わったのは誰か、それは鶴ケ岡の心ある人々である。その優れた人徳を見出したのは誰か、それは田中朝陽である。死後に子息の悦之を教育してくれたのは誰か、それは松山大年である。この石に碑文を書いたのは誰か、それは私、盤瀬行言である。

寛政7年春正月

以上のような大森子陽の須髪碑の碑文を書いた盤瀬行言(号は華沼)は、室鳩巣の流れをくむ朱子学者で書家としても知られる。子陽は荻生徂徠の学風に傾倒していたが、各学派の人々とも交友を深め、幅広く儒学を修めていた。

庄内における子陽の動静を詳しく伝えているのは、江戸後期の文人・池田玄斎(1775-1852)の著述である。玄斎は子陽より37歳も年下で面識はなかったが、子陽の面倒をみた柏倉要卿の近縁に当たることから、子陽に関する克明な聞き書きや、その小伝をもまとめている。これらの史料によると、子陽に入門したのは主として給人(きゅうにん=下級の士)や町人・農民といったいわゆる庶民であり、歴史上に残る人も多い。

一方では、白井矢太夫・和田伴兵衛など庄内藩きっての儒学者とも交わって、家老の水野内蔵丞も、子陽の教育法には感心していたとの記述も残っている。また、子陽は当時流行していた俳諧にも巧みで、茶・香・華道の嗜みもあったといい、当時この地方では、広く信望を集めていたことが裏付けられる。

(筆者・秋保 親英 氏/1990年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

大森 子陽 (おおもり・しよう)

儒学者。越後蒲原郡地蔵堂の人で歌人・良寛の師として名高い。安永6(1777)年庄内に来て14年間滞在、多くの下級藩士や商人・農民に学問を授けて大きな功績を残した。54歳のとき遺言を残して鶴岡で病死。明伝寺に門人らが建てた須髪碑がある。

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