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郷土の先人・先覚204 六角灯台作った棟梁

佐藤泰太郎(文久元-昭和13年)

佐藤泰太郎氏の写真

泰太郎は文久元(1861)年、佐藤三九郎の長男として弁天小路で生まれた。父は鵜渡川原の岩本家から婿にきた人で、世界的数学者・小倉金之助の母と兄弟というから、金之助と泰太郎は従兄弟になる。これを聞いて、私は後に泰太郎が特に名工から習ったわけではないのに、天才的棟梁としての腕を発揮するようになった秘密が解けたように思えた。やはり数学的に優れたものを生まれながらに持っていたのであろう。

明治10年、16歳のとき父・三九郎が亡くなり、大工へ弟子入りした。この大工は特に名前の聞こえた人でもなかったが、ここで泰太郎はめきめき腕を上げ、若くして名工の評判をとるようになった。彼が大工となったころには西洋建築が次第に日本にも建てられるようになり、その建築学が流入してきた時期である。泰太郎は持ち前の数学的才能で、この新知識をどこで学んだのか吸収したらしい。

従来の日本建築では屋根の重さなどを主としてタルキや柱を太くすることによって支えていた。ところが西洋式では重みを各方面に散らし、バランスを取ることによって支える。そのためにはボルトの普及も必要であった。

酒田でボルトの使用普及を図ったのは酒田のエジソンともいうべき中村太助である。太助は泰太郎より約20歳年長であり、あるいは彼の西洋知識は太助に負うところが多かったのかもしれない。

明治28年10月、宮野浦河口左岸に建てられた白亜の木造六角灯台は今、日和山公園にその美しい姿をとどめているが、これは彼が34歳のときに建てたもので、代表作になっている。

泰太郎が建てた建物は、同27年の大震災でも倒れないで残ったものが多かった。旧港座も残り、裁判所は崩壊したため一時港座を借りている。また、最も被害が大きかった船場町で3つ残った土蔵はすべて泰太郎が作ったものだった。

本五楼・相馬屋、五十嵐伝之丞家、船場町の奥七家と秋野平治郎家、山王クラブは代表作。

(筆者・田村 寛三 氏/1990年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤 泰太郎 (さとう・やすたろう)

棟梁。文久元年11月25日酒田に生まれる。16歳のとき大工を志して弟子入り。若いころから腕前は高く評価され、日和山公園に残っている木造六角灯台(市指定文化財)はその代表作で、34歳ごろの作品。このほか、相馬屋、山王くらぶなど酒田市内に泰太郎が手がけた著名な建築物が残っている。仏像、仏具類の収集に力を入れ、自宅に千仏閣を建て安置した。昭和13年12月10日、78歳で亡くなった。

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