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郷土の先人・先覚209 42年間の農民日記

後藤善治(明治11-昭和13年)

後藤善治氏の写真

庄内平野の一隅で泥まみれになって土を耕し、その傍ら、四十余年間に渡って日誌を書き続けた貴重な一農民の生活記録が『善治日記』となって残されている。

日誌を書いた善治(旧姓伊藤)は、飽海郡本楯村大字豊原(現・酒田市本楯)の農家、伊藤巳之助の二男として明治11(1878)年に生まれる。学校はそのころの義務教育年限であった小学校4年を終えたあと、父の元で17歳まで農業を手伝い、その後は同じ村の農家で若勢奉公。明治37年に同村丹蔵家の若勢となり、その働きぶりが認められて養子に迎えられ、後藤姓に変わっている。丹蔵家の人となった善治は、なお一層農業に精を出す傍ら、米の「買い出し」(庄内の農村では、農家の庭先から米や縄などを買い付け、町場の商人に販売して農家と問屋との間の商品流通を取り次ぎする仲買)にも手を出し、善治の働きにより晩年のころには丹蔵家を上層農家に上昇させた。

『善治日記』は明治26(1893)年から昭和9(1934)年までの42年間の膨大な記録と、ほかに昭和6(1931)年から同9年までの『若勢日記帳』からなっており、気の遠くなるような長い期間を書き続けることは、恐るべき根気と、努力と忍耐が必要である。

日記は善治が15歳の誕生日を迎えた旧正月から書き始め、「正月元旦、快晴風ナシ、休業、吹山(ふきやま)等ニ散歩ス」と記している。以後42年間1日も休まず続けている。

日記の一例をあげれば「十月二十三日、曇天又ハ快天、東南風少シアリ、庭、出来ヨリ馬ノ肥出ス、苗代ニ下肥モ担ギ、晩、私業縄少シ綯(な)ヒ」の如く書かれている。また農業に最も大切な天候については、次のように用語を符号化して正確を期している。

快晴▽最モ善キ天気

快天▽大抵善キ天気

曇天▽曇リタル天気

雪天▽雪降ル天気

雨天▽雨降リナリ

吹雪▽雪甚ダシク飛ブ日ヲ云フ

こうして毎日の天気はこの用語を使って記録している。このような記述は、現代の科学的な気象観測に匹敵する観測データともいえよう。

日記の中に一貫して感じられることは、自分が体験した“農の営み”を記録する執念と、“生きていく”という行動の素晴らしさがある。

限られた時数では膨大な日誌を解くには到底不可能であり、善治の生い立ちと、その人となりを僅かに述べただけになってしまった。昭和13年、60歳で亡くなった。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1990年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

後藤 善治 (ごとう・ぜんじ)

農業。旧姓は伊藤。明治11年に酒田市本楯の農家に生まれた。家業を手伝った後、村内の農家に若勢奉公し、農家の養子になった。農業の傍ら米の仲買いで財を拡大、明治26年から昭和9年まで42年間の長期に渡る「善治日記」が残っている。このほかに昭和6年から9年までの「若勢日記帳」もある。その間1日も休まずに天候、農作業など日記を書き続け、貴重な資料となっている。昭和13年に60歳で亡くなった。

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