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郷土の先人・先覚212 医会所十全堂の創立者

白崎五右衛門一実(寛政9-嘉永3年)

白崎五右衛門一実氏の写真

白崎家の先祖は、越前国白崎荘から酒田へ来たことから屋号を越前屋、姓を白崎と称した。代々ローソク太物、質商を営んだ。5代目・一恭はなかなかのアイデアマンで、し尿を集め肥料として売却し、その利益で半鐘、防火用水などを整備した。一実は寛政9(1791)年に一恭の長男として生まれた。

一恭は一実が利発なのを見抜いたのか11歳になると、当時庄内の道元禅師と称された青原寺の全龍和尚に預けた。禅寺は朝早くから坐禅、読経、掃除、勉学と寸分の隙間のない時間制で厳しい修行を強いられる。スパルタ式というがまさに英才教育である。ここで小僧さんと一緒にみっちりと鍛えられ、15歳になると米沢の興譲館に入り、藩儒・神保蘭室のもとで儒学を修め、左伝会頭にあげられ将来を嘱望された。

しかし、21歳のとき父・一恭の死により、帰郷して家督を継いだ。町年寄格、惣御町火消世話の公職にも就いた。若干21歳とはいえ、期待にたがわず英邁な風采、ゆとりのある態度博識能弁を兼ね備え、どこから見ても酒田一流の人物となっていた。家業は老練率直な番頭の助作が助けてますます発展させた。

文政11年7月連日の大雨で最上川が氾濫し鵜渡川原、亀ケ崎城、いろは蔵は水びたしとなり、稀にみる災害となった。一実は「水害を受け、よるべのないものは速やかに越前屋に来たれ」と木標に書き、所々の街角に立てて救済に当たった。天保2年酒田町医修行列立掛となった一実は、医学講究と恵まれない人の医療を図り、医師・佐藤蒿庵と相談し、同4年5月、本町六丁目の蒿庵宅に医会所を設け十全堂と称した。

同年から始まった天保飢饉に際しては町奉行・小河渡大夫、富豪・本間光暉と図り、その救済に努めた。これに感じた町民は後に正徳寺境内に塔を建て、その塔身に3人の功績を刻んだ。

同11年、酒井侯の長岡転封命令が下り、庄内農民は一大阻止運動を展開した。一実は江戸の佐藤藤佐と相談し、庄内入部となった川越藩に接近し、その内情を探った。ところが裏切ったと誤解した農民たちは、大浜で大集会を開いた後、その一部が伝馬町の一実宅を襲おうとした。この時、彼を活観音(いきかんのん)と尊敬していた酒田町民は決死の覚悟で一実を守ろうとした。

一実は香川景樹、庭田重嗣について歌を学び、本間光道、僧魯道、大信寺勝行院ら歌の交わりを結んでいる。酒田で窮死した流浪の国学者・服部菅雄からは遺命により「千世園旅日記」を贈られている。

(筆者・田村寛三 氏/1990年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

白崎 五右衛門一実 (しらさき・ごえもんかずさね)

素封家。酒田の自治に尽力した白崎五右衛門一恭の長男。11歳で鵜渡川原青原寺の学僧・金龍に預けられて教育を受け、15歳で米沢に赴いて藩校・興譲館に入り、藩儒・神保蘭空のもとで漢学を修める。また、和歌をよくし国学をも学んだ。  文政元年に父が死亡したため帰郷、総火消世話役を引き継ぎ、松山城大手門の再建では、同地で屋根瓦を製造して献じ、さらに1万本の松を植樹して二人扶持を給される。天保2年に酒田町年寄添役となり、町医業引立係に。また、医会所十全堂を設け、医術の研究と貧民の施療に当たった。54歳で亡くなった。

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