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郷土の先人・先覚215 純愛の貞女

小野定恵(天保9-明治31年)

小野定恵氏の写真

たえなる楽の音に合わせて女盛りの美女が漢詩の「新楽府」を舞う。その顔や姿の美しさは、まるで天女のように艶やかで、さし手ひく手の流れるような動きに満座の客は、時の経つのを忘れ、ただうっとりと眺めているばかりだった。

音に聞こえた今町遊郭の中でも、ひときわ栄えた今咲屋の2階の大広間でのこと。時は明治維新後の何かと世情が慌ただしいころであった。

この夜、今咲屋に集まったのは酒田飽海郡内の医師たちで、医師会をつくるための会合であった。その中心となっていたのは時岡淳徳や、西洋医学を修めた新進気鋭の伊東清基だった。清基は板垣退助に勝るとも劣らない立派なヒゲを蓄えた、見るからに堂々たる偉丈夫である。当時役は本町六丁目で内科医を開業していた。

清基は天女と見紛うほどの芸子の踊りに生まれて初めて感動を覚えると共に、すっかり魅せられてしまった。それからというもの清基は毎晩のように今咲屋に通った。

清基がとりこになった相手、つまり「新楽府」を踊ったのは小野定恵である。定恵は袋小路に生まれ、小さいころに今咲屋の養女となり、日本舞踊・三味線などの芸事を厳しく仕込まれた。天性の美貌と芸才に恵まれていた彼女はめきめきと頭角を現し、酒田一番の踊り手となり、今町の名花としてもてはやされていた。

2人は間もなく固く結ばれるようになった。しばらくはダンナと芸妓の関係が続いていたが、その後、落籍され、南新町に住み、ここで新町遊郭の芸妓やその卵たちに三味線や日本舞踊を教えるようになった。そのころ、清基は正妻をなくしていたものか、母親と一緒に人力車で定恵宅を訪れたそうである。

しかし、こうした平和な生活も、やがて明治38年に全国を襲ったコレラ大流行によって悲劇的な最後を遂げる。コレラはコロリとも称されていたくらい猛烈な伝染病で、一家が枕を並べて死亡するという悲惨な有様が各所に繰り拡げられ、死者は馬車に積まれ北千日堂前のコレラ山に運ばれた。

清基はこの恐るべき伝染病に体当たりでぶつかり、夜の目を寝ずに治療に当たったが、当時としては猛威の前に医学の力はあまりにも小さかった。そのうち清基もコレラに罹った。このとき定恵は母の止めるのを振り切って死を覚悟して看病に当たった。だが、その甲斐なく清基は没した。この話を聞いた本間家当主・光美翁は、自ら「徳は大海の如し」と書いて定恵に贈った。また、本立学校で本間家一族の子弟を教えていた漢学者の池田らいは「烈女小野定恵」と題する漢文を草して、彼女の命がけの看病ぶりを称えている。

定恵は激しい気性の持ち主だったが、礼儀正しい人でもあった。子供がなかったので、古着商いをしていた妹の梅代を2代とし、自分は三味線の師匠として静かに世を送り、明治31年60歳のとき病没した。葬式には新町芸妓が三味線を弾きながら海晏寺まで送ってゆき、町の話題となった。定恵は清基が亡くなったとき位牌を作ってまつり、船場町の写真家・池田亀太郎に肖像を描かせている。彼女の生家が浄土真宗の浄福寺であったが、清基の菩提寺である海晏寺の檀家となり、清基の墓の近くに葬られた。

(筆者・田村寛三 氏/1990年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

小野定恵(おの・さだえ)

酒田一の踊り手。袋小路生まれ。今町遊郭の今咲屋の養女となり、日本舞踊、三味線などを身につけ、天性の美貌、芸才にも恵まれ、酒田・今町の名花に。新進気鋭の医師・伊東清基と結ばれ、清基がコレラに罹ったとき、母の反対を押し切って看病。時の本間家当主らを感動させた。明治31年病死。葬式には新町芸妓が三味線を弾きながら列をなした。

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