文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚216 地域医療に貢献

筒井省二(明治23-昭和18年)

筒井省二氏の写真

筒井省二博士は荘内病院の5代目院長である。埼玉県北葛郡富多村の出身で東京府立一中・一高を経て九州帝国大学医学部を卒業し、同大学の医局員から大正15年に荘内病院の副院長(外科部長)として赴任した。昭和2年に医学博士の学位を得て、年俸6600円を給与されている。昭和6年に院長に就任。その後、18年間外科患者の診療と病院の運営に当たった。私事にわたって恐縮であるが、私の青春期の昭和8年前後は、1年間の間2カ月くらいは入退院を繰り返していた。こうした病弱な私の青春期の思い出に必ず折り重なってくるのは筒井院長である。痔・盲腸炎・体中走り回る筋肉炎・激痛を伴う胆のう炎などなど。手術は全て筒井院長の手にかかった。

当時、盲腸炎の手術といえば切腹と称し不安に思われていたが、筒井院長の外科手術は非常に評判が良く、患者も増え、しかも盲腸手術を安晋して受けられるという風潮を生み出し、定着していったものと山口寿さんは『荘内病院史』のなかで述べている。これも『荘内病院史』からの抜粋であるが、昭和8年ごろの病院の規模は特等室(1人)、一等甲(1人)13室、一等乙(1人)9室、二等(2人)6室、三等(6人)3室、入院患者定員55人であった。

そのころの荘内病院は、古びた大正時代の洋風建築を思わせるものであったし、患者の日光浴用のベランダがあがっている正面玄関前には、往年の酒井藩の家老・松平親民屋敷のなごりをとどめる「猪首(いくび)の松」が風雅に残されていた。正面玄関から廊下をはさんですぐ前にある幅広い階段を中心に、左右に診療室・治療室が並び、個室の一病棟、大部屋の二病棟など古色蒼然たるものであった。

そこに短躯で、かん高い声を出す均整の取れたスポーツマンらしい筒井院長がいたのである。院長は柔道四段か五段とかといい尊敬の意味を込めての噂が、患者の間に流れているのを記憶している。

筒井院長は明治23年生まれであるから、私がお世話になった昭和8年前後の院長は、42、43ごろの脂の乗り切った壮年期ごろだったと思う。両肩が多少盛り上がった上衣、袖とスカートの長い白衣をつけた、その白衣によってことさら美しく見える看護婦さんを4、5人連れ、回診車と共に病室を回診する筒井院長の頼もしい面影は、今でも頭に浮かんでくる。

「荘内病院の歩みの中で最も困難な時期は、戦争が激化し始めた昭和十八年ごろからだったろう。戦地に赴く医師の補充も思うにまかせず(中略)、また看護婦生徒の確保も窮屈となる(中略)。一方、患者の数は減少どころか医師一人当たりの患者は二万人となっている。こうした激務のため筒井院長自身、体を侵され毎日自分で検尿しながら無理を押し通して勤務したという。この無理が原因となり、十八年春、肺炎発病後病状悪化し帰らぬ人となったのである(『荘内病院史』より)」。戦場にあらざるところでのまさしく戦死であろう。ごく近年の太田秋郎院長の逝去もこれに近かったものではないかと思うのである。

筒井院長の病気の経過を抜粋すると、「九月七日意識混濁右上肢運動不全ヲ認ム・九月十日ヨリ漸次心臓衰弱加ハリ十一日午前十時五十分逝去」とある。市では病院葬を持って院長の逝去にその礼を尽くしたのである。

(筆者・秋野庸太郎 氏/1990年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

筒井省二(つつい・せいじ)

埼玉県出身。九州帝国大学医学部卒。大正15年荘内病院副院長として赴任。第二次大戦中の最も困難期に地域医療に挺身し、盲腸(虫垂)炎の手術を定着させる。昭和18年、53歳で亡くなった。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field