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郷土の先人・先覚219 地域柔道の普及に尽力

斎藤吉郎(明治38-昭和36年)

斎藤吉郎氏の写真

斎藤吉郎先生と私が奇遇したとき、戦後も5年が過ぎていたが、しかしあのとき、まだまだ空腹の時代が続いていた。「袖浦は庄内砂丘を抱えて、果樹と稲作を主にする豊かな村で明媚な風光を楽しむことのできる良いところだから来てみないか…」と誘いに心傾いたのは、実はその時、学校を出たばかりの私は、ツベルクリン反応が陽性に転換して未だ間もない時期であったことにもよる。

先生は昭和3年3月、東京高等師範学校を卒業と同時に、樺太の豊原中学校の教壇に立ち、戦後の昭和22年、郷里鶴岡に引き揚げてこられ、袖浦村の新制中学校初代校長に就任されていた。豪放磊落、まさに講道館柔道7段(後に8段に昇段)の名にふさわしい誠実にして実直、決して飾らない人柄の方であった。そのとき先生は、単身学校宿舎に居住しておられたので豊富な人生体験をもとにしたお話を毎夜お聞きすることが出来たのは、本当に楽しかったし、そして今でも考えさせられることの多くある私の心に残る人となっている。

しかし、ご自身の功績とか、あるいは功労などに関しては多くを語りたがらない謙虚な方だったが、昭和4年、秩父宮様が総裁を務められていた明治神宮体育大会に於いては死力を尽くしたが、遂に優勝を勝ち取れなかったあの時の無念さを、ただ一度だけ口にされたことがある。先生にとって、それは青春時代の燃えるような、そして後になっては宝のような忘れることができない大事な思い出だったことは容易に想像できる。

先生は当時、学校長としてのお仕事の他に全日本柔道連盟評議員と、同鶴岡支部長を兼ねておられ、多忙を極めた時期であったと思われるが、それをしっかり支えてくれた人に、鶴岡南高校教諭で実弟だった佐藤三郎さん(当時柔道6段)とか、山添小学校教諭でまたその実弟だった川村武雄さん(同4段)、あるいはまた鶴岡工業高校教諭で従弟に当たる鈴木新吉さん(同6段)といった方々がおられ、こうした血縁者の有段者というのは、先生にとっても大きな誇りであり、何かにつけて心強く思っておられたことだと思う。そしてこの地域における柔道の指導と普及は“わが一族が先頭に立って”という思いがひとしお深かったに違いない。

そうした先生の功労に対し、山形県体育協会は昭和28年、賞を与え県史にその名を記した。その後、横山中学校、泉中学校の各校長を歴任されたが、先生がよく好んだ言葉に「得意淡然、失意泰然」がある。先生は私の知る限りにおいて、その8文字を常に心に入れて生きられた方だったと思う。

年度の行事が全て終わった昭和36年3月31日、栄光に満ちたその生涯を泉中学校のご自分の机に座したまま閉じられたと聞く。享年56歳。死の在り方さえあまりにも淡然過ぎたように思えてならない。

(筆者・坂清治 氏/1990年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

斎藤吉郎(さいとう・きちろう)

講道館柔道8段。明治38年鶴岡市宝町に生まれる。東京高等師範学校を卒業して樺太に渡り、豊原中学校の先生となる。樺太青年組代表として第5回明治神宮体育大会に出場して準優勝を果たす。終戦となり、郷里鶴岡に引き揚げて袖浦中学校校長に就任。その後、横山、泉各中学校校長を歴任した。その間、全日本柔道連盟評議員、同鶴岡支部長を務め、柔道の指導と普及に尽力した。昭和36年56歳で亡くなった。

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