奥山長左衛門は、生まれ育った浜中の教育と産業の振興に生涯をかけた人である。
田川郡の海岸に位置する浜中村は、明治維新ごろまで約200戸を有する大集落であるが、古くから飛砂の害に悩み、浜中の歴史は飛砂との戦いの歴史といっても過言ではなかった。長い間植林を続けた結果、飛砂の害は少なくなったものの、農地は少なく、漁業に頼る生活は非常に不安定なものであった。
長左衛門は不安定な浜中の生活を安定させ、さらにその向上を図るには、少ない農地の効果的活用であると若いときから考えていた。
長左衛門が第一に目をつけたのは甘藷(かんしょ・サツマイモ)であった。水田の少ない砂地の浜中では、甘藷栽培こそが生活の安定に最も適すると考えた。安政6年、庄内藩士・田中与平が越後から持ってきた甘藷の種藷を植え付けたのが、この地方の甘藷の栽培の始まりとされ、その功績をたたえた碑がある。しかし、栽培方法が未熟であったことと、甘藷の貯蔵法が分からないために収穫した甘藷を腐らせてしまうなどで、甘藷栽培は思うほど普及しなかった。
長左衛門は同志と語らい、何回となく先進地の越後に行っては栽培と貯蔵方法を学び、帰って来ては学んできた方法を実行し、研究を進め、改善を積み重ねている。また、良い種藷を東京方面からも求め、栽培を勧めたことから、十数年後には浜中はもちろん、近辺の地域にも普及していった。
第二に果樹で、特に桃の栽培である。浜中では天保6年に若桃が植えられたと伝えられるが、村民の関心は低かった。長左衛門は外国種の桃を導入、明治30年ごろからその有利性が認識され、栽培面積も増加。明治末には浜中を中心とする西田川郡が山形県一となり、船積みして新潟方面までも販路を広げるほどの桃の名産地となった。
長左衛門は和梨・西瓜など多くの園芸作物や養蚕にも取り組み、アスパラガスの試験栽培も行ったと伝えられている。
漁を主な業とする浜中は、一般に気性の激しいところであった。これを憂いていた長左衛門は教育による改善が急務と考え、常に村民に教育の大切さを説いた。低い就学率の向上を図り、貧しい児童には学用品を買い与えた。さらに青年教育の必要性を痛感し、浜中小学校校長の中山茂と計らい、夜学会を設けた。長左衛門の家を夜学会の学舎にし、長左衛門自身も青年たちの指導に情熱を傾注、青年たちに大きな影響を与えている。
農家。天保7年1月浜中村(現・酒田市)の佐藤藤十郎家に生まれる。幼名は鶴吉。同村の奥山家の婿養子となり、長左衛門を襲名。明治15年浜中小学校の学務委員世話係。浜中区長、区会議員などの役職につく。明治33年浜中大火で96戸焼失。その時、住民が住宅再建のため、明治9年官有地に編入された国有林から木材を伐採し、営林法違反で数十名が逮捕されるや、寝食を忘れ、身を挺してその救済に当たる。浜中聖人と称され、その徳を称えられた。大正4年12月、80歳で亡くなった。