文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚239 女子教育の質向上を図る

時岡粂(明治元-昭和15年)

時岡粂は女子教員がほとんどいなかった明治初期から教育界で活躍している。粂は満11歳11カ月の年齢で、明治12年7月3日山形県から準訓導として酒田町の琢成学校勤務を命じられている。同年7月には飽海郡役所より月給金3円の辞令を受けている。

明治8年4月、酒田町本町三丁目の二本栄松宅に女子児童を対象に双松学校が開校、のち操松学校と名を改めている。東京府出身で、宮野浦村(現・酒田市)の宮浦学校の教師として招へいされていた小川宮子が、同年操松学校の教員に転じた。当時、操松学校の児童であった粂は、宮子の薫陶を受けている。

明治9年6月、内務卿・大久保利通が鶴岡に来訪した際、酒田町にあった操松・天正・馨香の3校から選抜された女生徒の授業を鶴岡で見せることになった。その準備のため、宮子は旧亀ケ崎城にあった鳴鶴学校で1カ月に渡って選抜生徒の教育に当たったがその中には粂もいた。さらに同年9月に太政大臣・三条実美が鶴岡の朝暘学校を訪問した時も、宮子は21名の女生徒を引率しているが、その筆頭は粂である。

粂は明治11年10月、操松学校の下等小学全科を卒業し、同12年7月に琢成学校勤務となるが、翌13年3月には依願退職し、のち飽海郡教育講究会に入会。講習を受けて同16年7月に山形県より小学校初等科免許を受け、同年8月に七等訓導として琢成学校勤務、月俸6円となった。同年10月東京女子師範学校(のちのお茶の水女子高等師範学校)に入るため依願退職している。飽海郡では明治17年郡内有望の学生に学資金を貸与することになり、第1回貸費生は7名で、粂が女子でただ1人貸費生となっている。

同20年4月卒業、同年5月に酒田尋常高等小学校勤務となり、月俸は15円であった。明治21年同校に教授用風琴(オルガン)が到来した。風琴はドイツ製で98円余もするもので、当時全国にも数台しかない新式のものであった。風琴の弾き初めは粂が行うなど、粂の活躍は目覚ましいものがあった。

山形師範学校教師として酒田を去った宮子は粂に「孝は百行の本、千業の基」と説き、父への孝行の大切さをさとす手紙を残している。酒田林昌寺に昭和6年宮子の報恩碑が建立され、恩師同門34人の発起人の中に粂の名がある。

(筆者・須藤良弘 氏/1991年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

時岡粂(ときおか・くめ)

教育者。幕末から明治にかけて医師として活躍した時岡淳徳の二女として、酒田町桶屋町一番地に明治元年8月15日に出生。久米とも書く。明治20年高等師範の女子小学師範学科を卒業。のち安部家に嫁ぐ。文久元年生まれの姉・悌(やす)も長い間、琢成学校や酒田第一尋常小学校に勤務している。粂は昭和7年安部久米の名で、時岡淳徳が嘉永5年に写した「傷寒論序解」などの書を酒田の光丘文庫に寄贈しているが、悌・粂の晩年の消息はよく分かっていない。記録によると粂は昭和15年ごろ没したとされている。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field