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郷土の先人・先覚240 米増産に大きく貢献

佐藤源五郎(明治7-昭和16年)

佐藤源五郎氏の写真

農事改良に精魂を尽くす傍ら、新しい小運送業の開拓に目をひらき事業を興して活躍した佐藤源五郎は、明治7(1874)年3月、染物屋を営む先代源五郎の長男として酒田米屋町(現・酒田市一番町周辺)に生まれ、幼名を源七といった。幼少のころ両親とともに西荒瀬村西野に分家しており、長じて、源五郎を襲名している。

源五郎の生家は九郎右衛門と称し、明治維新の折、幕臣・佐藤桃太郎、関口有之助、天野豊三郎の3人が己の節操を貫き通し、刑場を鮮血で染め処刑されたのを、生前手厚く処遇。後年、林昌寺境内に碑を建立して霊を弔った義侠の人で、源五郎にもこうした義人の尊い血が流れていたのだろう。

先代からの家業である染物業を営みながら、農業にも精を出して働いたが、もともと活動的なところから運送事業の将来性に目をひらいた。その当時は背負って荷物を運搬することが普通であった。

明治16(1883)年、酒田の得行家・秋野平治郎が庄内各地の主要道路に休み石(荷を背負う人の腰掛け石)970個を4年かけて据え付け、荷を背負う人たちに便宜を与えた。源五郎が荷を背負う人たちの労苦をみて、それに代わる運送に目を開いたのも、荷を背負い休み石で休息している人たちからヒントを得たのかもしれない。

彼はまず手始めに仙台から荷馬車2台を購入して小運搬業をはじめた。これが当たり、事業は着々と伸びて県外まで発展した。また内国通運や町の運送店などとも契約をして運送を一手に引き受け繁盛、鉄道が開通するまで続いた。これも彼の先見の明と、事業に対する熱意が実を結んだことである。

一方農業についても鋭意研究を怠りなく稲作改良などに打ち込み、やがて県農事試験場の委嘱となって、技師・梅津福蔵より直接指導を受けて稲作実験に励んだ結果、「稲作多収穫作付法」を考案して、米の増産に大きな貢献を成している。これも彼の農業にかけた情熱と努力が見事に花を咲かせたことである。

後年、源五郎は西荒瀬村村会議員に選ばれ、また同村教育委員として村政や教育に尽くしている。気性は激しいが面倒見が良く、心の温かい人といわれている。企業でも稲作改良でも大きな仕事を成し遂げた人である。

昭和16(1941)年3月、68歳で亡くなった。

(筆者・荘司芳雄 氏/1991年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤源五郎(さとう・げんごろう)

農事功労者。染物屋先代・佐藤源五郎の長男として明治7年、酒田米屋町に生まれる。家業の傍ら農業に従事、その後、荷馬車2台を買い入れて小運搬業を始め、県外まで事業を伸ばす。議員として酒田町政にも関係した。また、県農事試験場の委嘱を受け、稲作実験を続けて「稲作多収穫作付法」を考案、米増産に大きく貢献した。昭和16年3月、68歳で亡くなった。

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