農村指導者として、また文化人として活躍した富樫広三は、明治37(1904)年1月、飽海郡西荒瀬村大字酒井新田字元泉(現・酒田市泉町)で生まれ、祖父・広治の孫に当たる。富樫家は「きもど」(肝煎のこと)と呼ばれ、長い間肝煎役を務めた家柄である。
大正10年、庄内農学校を卒業、そのころ山形県立自治講習所長をしていた加藤完治に傾倒し、大高根青年道場に入り厳しい指導を受ける。童子のことを自著『無駄なき遍路』に次のように記している。「…開墾地での激しい修練の生活にあって、私には加藤先生の恩情も忘れられなかったが、なぜか最も心に残っているのはあの山々の姿である。人間は大自然にはついに及ばないのであろうか」。
この『無駄なき遍路』は広三の自伝的な本で、その文才もさることながら、人生の中で多くの人たちとの出会い、読書から得た感銘、自然に親しむ心など、人生街道で体験した幾多の出来事を書いた、広三の哲学が感じられる本である。
ほかに短歌も作っており、羽黒町のことだろう「松ケ丘本陣」と題する歌がある。
「本陣の屋形の古きおちつきに心しみじみ昔偲ばゆ」
「夕靄は静かに人を和ませて本陣に今太鼓のひびく」
こうした半面、当時の西荒瀬村助役として行政に携わり、農業関係では酒田市精華市場開設、酒田市北部農協組合長、庄内経済連常務理事を歴任、農村振興と新しい農業経営に指導者として手腕を発揮した。
だが何といっても昭和22年12月1日発刊の『荘内農村通信』は、彼の生涯の夢を託した大事業であったろう。戦後の用紙不足で更紙を使った8ページものであったが、農業専門誌の発行は庄内ではもちろん最初で、画期的なことであった。その第1号に広三の巻頭言が載っている。
「…荘内の農業は荘内の農業である。荘内の農人には荘内の農人としての体臭があり、荘内の作物には荘内の作物としての色がある。それが自然で、その環境に即してこそ真に完成の道が開けゆくのだと思う…」郷土を愛し、荘内農民の魂に触れるような叫びである。
亡くなったのが昭和52年、享年73歳であった。
農村指導者。大正10年庄内農学校を卒業、大高根青年道場に入り、開拓指導者・加藤完治に師事。のちに飽海郡西荒瀬村助役となる。酒田北部農業委員会長、飽海郡農村工事共同組合連合会長、庄内経済連常務理事、酒田市北部農協組合長などを歴任、農村指導者として活躍した。また、昭和22年12月1日「荘内農村通信」を発刊、その経営に当たった。