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郷土の先人・先覚253 労働運動に生涯賭ける

是谷昌美(大正12-昭和48年)

戦後の地域労働運動で活躍した是谷昌美は、大正12(1923)年、酒田市寺町(現・酒田市中央東町周辺)で塗装屋を営む是谷家に生まれている。昭和15(1940)年に国鉄に就職して山形駅の駅主を命じられ、のちに酒田駅に転勤した。

国鉄の中で最も危険を伴う仕事は入れ換え作業で、以前は多くの犠牲者を出している。是谷も16年、構内で貨車の連結作業中、不幸にも片足を切断するという重傷を負った。だが、その時の豪気さは、当時の国鉄職員はもちろん、彼を知る人は語り草になっている。

こうした気丈さと燃えるような正義感は、戦後遼遠の火の如く広がった労働運動に飛び込み、同20年に国鉄労組酒田分会青年部書記長になっている。その後は働く人のために生涯を労働運動に情熱をかけた。

昭和26年、国鉄労組新潟地方本部組織部長として管内の組織強化にその力を発揮しているし、同30年には31歳の若さで飽海地区労議長に就任、いかに卓越した指導者であったかと知ることができる。

同32年には、総評全国オルグに迎えられて全国を駆け巡り、多くの争議を指導している。

同43年再び飽海地区労議長に就き、同47年までの5年間、議長として地方労働運動の先頭に立ち、長い間虐げられてきた労働者の団結と、働く人の権利を守る運動に全力を尽くしている。

また、同34年3月に「酒田市政を明るくする会」の事務局長に就任して、その要となり、初めて小山革新市政を誕生させた原動力は、是谷のエネルギーによるところが大であろう。

昭和47年、北港開発に伴い火力発電公害問題が起きると、公害反対を叫び、酒田市公害審議会委員として市民を公害から守る運動に全精力を傾けた。

ところがその翌年9月、体調に異常をきたし、市立病院に入院した。だが、持ち前の豪気から病院を抜け出して、公害対策審議会に出席したという。

しかし、その後病状が悪化して、遂に昭和48年9月25日、49歳の若さで命を散らしている。告別式は10月17日市民会館で、国鉄労働組合・飽海地区労働組合会議の行動で行われ、参列者は故人の遺影に花を捧げ冥福を祈った。

「1人は万人のために、万人は1人のために」。これは是谷のモットーで、こうした信念が、労働運動に生涯をかけた青い姿である。

(筆者・荘司芳雄 氏/1991年10月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

是谷昌美(これたに・まさみ)

地域労働運動で活躍。大正12年、酒田市寺町の是谷家に生まれる。昭和15年、国鉄に就職。山形駅を経て酒田駅に。その後、労働運動に飛び込み、20年・国鉄労組酒田分会青年部書記長。26年に国鉄労組新潟地方本部組織部長、30年には31歳で飽海地区労議長に就任。労働者の団結と働く人の権利を守る運動に尽力している。また、34年には「酒田市政を明るくする会」事務局長に就任、小山革新市政誕生の原動力になっている。48年9月25日、49歳で死去。告別式は国鉄労働組合・飽海地区労合同で行われた。

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