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郷土の先人・先覚271 飽海耕地整理事業に尽くす

槇 卯七(明治19-昭和55年)

日本での本格的な耕地整理事業は、明治32年の耕地整理法によって始まった。飽海郡では同35年に耕地整理に関する建議書を県に出し、同39年、県でも耕地整理に取り組むことになった。

飽海郡では三角や丸型の狭い水田を10アール単位の長方形の水田に改良するための飽海郡耕地整理組合が創立されたのは明治43年である。組合長は下飽海郡長、副組合長は本間光美ら11名、庶務部長・本間光勇、工作部長・本間光弥などであるが、槇卯七は耕地整理事業で最も功績のあった1人である。

卯七は明治39年東京の攻玉社工学校を卒業すると同時に、山形県庁に勤め、土木技手となった。その歳に農商務省委託の耕地整理講習会が現在の東京農大を会場に開かれたが、卯七も県から派遣されている。そこで整然とした用水路・排水路・農道・水田を造る耕地整理事業に強い関心を持ったといわれている。

工事費の負担などから反対の声も大きくあがったが、明治43年4月3日、約8000ヘクタールにわたる飽海郡の耕地整理の起工式が行われた。土木事業の総指揮は農商務省の押田翼技師であるが、現場の実際の総責任者は「山形県耕地整理助手」の卯七であった。

卯七の耕地整理の工事にかける情熱は異常ともいえるほどで、正に寝食を忘れ、工区を飛び回った。結婚しての新世帯も酒田にある耕地整理組合の一室で、それも仕事のため1週間でも2週間でも帰ってこなかった。卯七の誠実な人柄が農民たちからも信頼された。

木造工作物を鉄筋コンクリート製に改め、暗渠排水にコンクリート管の導入を積極的に行っている。また、電気によって揚水し、かんがいすることを耕地整理組合に提案し、外国製の揚水機とモーターを最上川岸に設置して、600ヘクタールを開田し、400ヘクタールの田に補水している。

卯七の工事への情熱と誠実さが買われ、大正12年飽海郡耕地整理組合の技師となった。昭和2年8月30日、手当三千円を支給され解職となるが、同年9月1日に月俸百円で再び技師となっている。大町溝普通水利組合、日向川土地改良区、有終会(耕地整理事業完了後の維持管理機関)、北斗会(酒田米穀取引所解散後の財団法人)などからも技師として招へいされている。

庄内平野の整然と区画された田は、卯七の力によるところが非常に大であった。

(筆者・須藤良弘 氏/1992年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

槇 卯七(まき・うしち)

農業土木技師。明治19年9月1日、西村山郡谷地村(現・河北町周辺)に生まれる。子孫の話によると、実家は地主で富商であったが、卯七が山形中学3年の時に父が死去したことで、中学を中退した。職に就き、苦労した末、攻玉社工学校に入学するが、生前苦労した話はしなかったという。無口で、厳しく、酒は飲まないが食べ物にうるさかった。黄綬褒章など多くの賞を受ける昭和55年12月5日没。

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