文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚277 「靖光」の刀匠銘 陸軍大臣が贈る

池田靖光(明治12-昭和16年)

飽海郡観音寺村(現・酒田市八幡地区)に伝兵衛鍛冶の屋号で、刀剣から刃物類まで製作する鍛冶屋があった。代々続いた古い家で、祖は池田伝兵衛(刀剣銘一雅)といわれる。その分家である伝兵衛鍛冶三代目富一の二男池田一秀(竜軒)は、赤湯の刀匠・水心子正秀に師事して鍛刀の技を会得、文化2(1805)年庄内藩に抱えられ三人扶持を給されている。

靖光の父は伝兵衛鍛冶九代目で竹治(一光)という。母はふくので、明治12(1879)年10月観音寺村で長男として呱呱(ここ)の声を上げている。幼名は修治・一光と呼ばれていた。こうした刀匠の血を引いた靖光は、子供のころから刀剣や刃物類の製作を目の当たりにしながら成長していった。

三男の一泰は刀剣の道ではなく実業界に進み、東洋整流子株式会社をおこして一流企業に育て上げ業界に貢献した人で、兄弟の歩んだ道はそれぞれ違っても、ともに大成した人物である。

靖光は父のあとを継ぎ十代目で、はじめ一光と称して刀工の修業に励み全国に名を知られるようになった。

昭和8(1933)年軍刀製造を主目的に、日本刀鍛錬会が東京の靖国神社境内に創設され、全国の刀鍛冶四百数十名に呼び掛けて試作刀の提出を求めた。審査の結果、備前の梶山刀匠(のち靖徳)、江戸の宮口刀匠(のち靖広)とともに池田一光が選ばれ、東京に招かれて水心子派の刀匠として鍛刀に励んだ。

陸軍大臣・荒木貞夫大将はその労に対し、三刀匠に靖国神社の「靖」のついた刀匠銘を贈り、一光も「靖光」と改めた。これが56歳のときであった。

ある日靖光が刀剣界の権威に、書き損じの消息らしき書類をもって尋ねてきたので、早速熟読してみると、化政のころに水心子正秀と一秀が交わした鍛錬焼入に就き、真剣な問答を書いたものであることが判明した。

こうした書類は刃剣界においては大層貴重な文献であるので、新たに装を加えて巻き物に仕立て靖光に贈ったという。これが今に残る『正秀・一秀師弟問答書』で、巻物の冒頭にある文を簡単に要約して記した。

こうしたことをみると、水心子派の流れが靖光の鍛刀の中にも息づいていたことを知ることができる。

昭和15年、病で帰郷した靖光は、惜しまれながら翌16年63歳で亡くなった。

(筆者・荘司芳雄 氏/1992年10月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

池田靖光(いけだ・やすみつ)

明治12年10月3日、飽海郡観音寺村に生まれる。祖は池田伝兵衛(刀剣銘・一雅)といい、はじめ山伏となったが、のち鍛冶職を営んだ。靖光は十代目。一光と称して刀工の修業に励み、全国に名を知られるようになった。昭和8年、東京九段靖国神社境内の日本刀鍛錬会の刀匠として招かれ、刀工の指導に専念。陸軍大臣荒木貞夫大将から「靖光」の刀銘が贈られた。昭和15年、病で帰郷。翌年63歳で死去した。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field