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郷土の先人・先覚288 日本鉱業界の長老

野附勤一郎(明治17-昭和38年)

朝鮮・大陸・シベリアの地下資源開発調査に生涯を捧げた。

酒田野附家は貞享元(1684)年から明治まで9代、米屋町大庄屋を務めた素封家である。9代彰常は酒田三大文書の一つ、野附叢書を書き、学而館創設に尽力。10代友三郎は酒造業、町会議員15年。北庄内石油資源調査、最上郡釜渕の原野開拓に私財を投じた。親交があった板垣退助からの礼状が酒田市内で見つかっている。

また、自由民権運動推進に尽くした。その友三郎の長男が11代勤一郎である。

明治17年、荒瀬町に出生。「父は鉱山で挫折した。その遺志を継ぎ、必ずやりとげてみせる」と決意。

庄内中学・旧制二高・東大工学部採鉱治金科卒業。同43年九州波佐見金山入社、大正2年神戸鈴木商店技師、朝鮮半島に渡る。日本金属・朝鮮炭業・日窒鉱業・朝鮮金山などの要職を歴任。昭和23年朝鮮産業開発の功により総督府より褒賞。また京城府会議員15年勤続。この間、朝鮮・大陸・シベリアの資源開発に奔走。「33年間、山ばかり歩き回って来た」と振り返ったという。

終戦で、朝鮮での事業、私財すべてを失い帰国。昭和25年、旭興業取締役、67歳とは思えぬ矍鑠(かくしゃく)たる体力と意思で没年までの10年余、再び東北地方の鉱山を調査する。まさに全生涯を山に燃焼、父の遺志を見事に開花させた。

豪放磊落、機智に富み、人情味豊かな数々の逸話がある。朝鮮部隊入隊の酒田の故吉野孝太郎氏が親戚なので尋ねた折、「今度は酒田出身者みんな連れてこい」と。大勢押し掛け、京城一流料亭で豪華な接待を受けたという。また、東北に来ると祖父の生家や先祖の霊前に額づいた。筆まめに手紙を書き「風貴」と称し洒落っ気たっぷりの俳句、川柳でみんなを笑わせた。知人親戚の子弟には惜しみなく修学資金を与えた。趣味は鴨猟、獲物は自分で料理し、杯をあげるのが楽しい、と。

昭和38年12月、東京で病没、享年79歳。

(筆者・庄司功 氏/1993年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

野附勤一郎(のづき・きんいちろう)

明治17年、酒田荒瀬町に出生。野附家は貞享以来代々大庄屋を務めた。9代彰常は酒田三大文書で知られ、勤一郎はその孫である。明治43年、東大工学部卒業、鉱山業界に入る。大正2年朝鮮に渡り、鉱業界の一流会社要職歴任。戦後は東北北部各県の地下資源調査に尽力。鉱山に一生を捧げた。昭和38年、東京で亡くなった。79歳。

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