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郷土の先人・先覚316 武芸極め子弟を教育

梶原久三郎(寛文11-宝暦8)

武芸百般に秀でて名を成し、後年子弟教育に当たった梶原久三郎は鵜渡川原村(現・酒田市)の農家・久兵衛の長男として生まれ、のちに同村の足軽梶原家の養子となる。

久三郎15歳の折、国を出、伊勢参宮をすませたあと、武者修行を志して江戸に赴き、本所三ツ目で一刀流の道場を構える高橋弾正左衛門と試合をし負けて弟子となる。また、幕臣岡島久内にも入門武を練り、7年間修行して8年目に免許を得たが、印可(いんか)は百人の神文がないと渡されず、翌年百人の神文を持参、やっと印可を与えられている。以来、多くの師について武芸に励み腕を鍛えている。

竹生嶋流棒は佐藤七兵衛に、谷口夢想流の太刀と柔術は小野小右衛門、坂巻流和悦は江戸の間淵十郎兵衛に教えを受け免許を得ている。また、沙門流縄ほか鎌、居合、手裏剣、鎗(やり)、長刀(なぎなた)に長じ、いずれも蘊奥を極める。

久三郎江戸詰めの折、松平内譜廻勤先にて喧嘩に遭い難を避ける場所がなく、供の久三郎に声をかけた。彼は争いの中に分け入ったが止める気配もないので、6尺余の暴漢を7、8間投げつけたという。またある時、富沢町で古帷子(ふるかたびら)のことで喧嘩となり投げ飛ばしたところ、大勢の野次馬が集まり、大きな棒を振り回し大乱闘となったが、わずかのかすり傷で打ち負かし、屋敷に帰って支配頭に届けたという武勇伝が残っている。

久三郎は幼少のころから武芸を心掛け、庭に小木を植えておき、日々飛び越えて己を鍛え、その木が生長するに従い高く飛び越えることが出来たといわれ、こうした努力が実を結び、武芸者として大成したゆえんであろう。身分は足軽であったが、こうした達人であれば、藩中にも彼に随身して武芸の道を極めた人が多くあったといわれている。

(筆者・荘司芳雄 氏/1994年12月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

梶原久三郎(かじわら・きゅうざぶろう)

寛文11年、鵜渡川原の農民・久兵衛の長男に生まれ、足軽・梶原家の養子となって、多くの武芸者に師事し、免許を得る。

貞享2年に伊勢参りの後、江戸に出て武芸に励み、帰藩して武術など子弟の教育に当たるなどの功績により、享保18年、藩主より2石を加増され、物頭北楯十右衛門組に属して精励した。

没年は宝暦8(1758)年4月29日で、戒名は「端山了然居士」である。

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