文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚319 最上川舟運に壮大な夢

大谷孫七(嘉永4-大正7)

明治14年、酒田の廻船問屋が連名で最上川築堤・酒田築港の建言賛成書を山形県庁に提出しているが、その中に大谷孫七がいる。

大谷家は江戸期から酒田船場町で、廻船問屋を営み、明治に入ってからも、海産物・食塩・和洋紙・雑貨などを取り扱う仲買業として手広く活動をしていた。

明治30年代庄内地方では鉄道敷設の運動中であったが、山形県の内陸部ではすでに奥羽南線が新庄まで延長されていた。大谷孫七は酒田に港があっても浅くて大船が入れず、交通から孤立している庄内の現状を憂い、庄内の開発のためには最上川を物資の輸送に利用することを考えた。そこで、庄内と内陸を結ぶものとして最上川に効率の良い蒸気船を運航させることを計画した。

川蒸気船は明治9年、大石田で就航するなど、明治に入ると部分的には使用されていたが、大谷孫七の計画は、赤川、最上川を航路として、鶴岡-酒田-本合海-大石田間に蒸気船を航行させるもので、所要時間は6時間、新庄からは鉄道による連絡を考えていた。

事業は孫七が創立した酒田水陸運輸株式会社(資本金2万円、社長は大谷孫七、重役は大石田町高桑喜之助、酒田町の実業家中村太助など)によって実行された。明治35年11月27日、酒田船場町で盛大な命名式と進水式が行われた。最上川残吃水蒸気船は「第一両羽丸」と命名され、東京の石川島造船所で製造されたものであった。

多大な期待をかけられての第一両羽丸の運航は、最上川の浅瀬などに阻まれ、事故が多く、酒田での発着もできず、清川・本合海間の運航となった。清川と酒田・鶴岡間は馬車による連絡であった。

運航が清川・本合海間に短縮されたが、大谷孫七は清川・本合海間の陸路が、特に冬期間交通上の大障害となっていることから、この間の蒸気船運航は貨物輸送に大きな便益を与えるものと確信し、運航を続けた。

幾多の苦難にも屈せず、最上川航行に適するように大阪鉄工所によって設計された第二両羽丸、明治40年には第三両羽丸を大谷孫七は次々と就航させた。第二両羽丸は就航後間もなく沈没する悲運に遭うが、大正2年当時はモーターボート最進丸も運航している。

しかしながら、最上川に多くの蒸気船を走らせ、舟運回復にかけた大谷孫七の壮大な夢も大正3年12月陸羽西線の開通で消えた。

(筆者・須藤良弘 氏/1995年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

大谷孫七(おおたに・まごしち)

実業家。嘉永4年3月3日、酒田町上台町に生まれ、のち下中町に居住。家業の隆盛に努める一方、町会議員、最上川河口修築請願委員などの役職につく。大谷家の先祖は天明年間京都から酒田に移住。船宿を経営して産を積み、大谷孫七商店として大きな存在となった。一族はホテルや砂糖、鮮魚の販売など中町を中心に活躍。一方、日本舞踊振興にも力を尽くすなど文化面でも貢献した。大正7年7月24日死去した。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field