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郷土の先人・先覚32

阿部 次郎

阿部次郎氏の写真

阿部次郎は、明治16年8月27日、飽海郡上郷村大字山寺(現・酒田市山寺)に生まれた。父・富太郎、母・お雪の二男である。生家は松山藩以来名主格の半農半商、父は小学校の教員で勤務の関係から祖母・わかのが養育し、山寺小学校から松嶺小学校に転入し、荘内中学(現・鶴岡南高)に進学した。

3年生の時、山形中学(現・山形東高)に転校、5年生の時級長を務め、12月加藤忠治校長排斥の首謀者として放校を受け、京北中学に入学した。第一高等学校、東京帝国大学哲学科を卒業。32歳の時「三太郎の日記」を出版、大正12年に東北大学の教授となり、昭和20年3月定年退職、31年3月東北大学名誉教授の称号を受けた。

34年6月10日、仙台市制70周年記念式に於いて仙台市名誉市民の称号を受け、同年10月20日脳軟化症で逝去。26日仙台市葬が行われ、法名「老心院殿仁道次朗大居士」。青い山脈を遠望する仙台の北山霊園の小高い丘に、老松4、5本に囲まれて静かに眠っている。77歳の生涯であった。

次郎が30歳前後に書いた「三太郎の日記」はあまりにも有名だが、特に敗戦後の人心は憔悴し、荒廃しきった時代に出版された「阿部次郎選集」や、再版の「三太郎の日記」は、心の拠り所としてどれだけ多くの人々に愛読されたことか。

次郎が東京への未練を絶って仙台に赴任したのは、41歳の時である。研究のために収集した広範な資料は、仙台市の博物館に収められているが、その阿部コレクションは驚嘆に堪えないし、日本の再建を念願して創設した日本文化研究所を東北大学に寄贈されたことは周知のことである。

「歩きながら考える」次郎の日課は、愛宕山や大年寺山を散歩した。仙台市では「哲学の道」を造成したが、次郎に対する敬慕の散歩道である。

酒田市松山地区(旧・松山町)でも、次郎の生誕100年を祈念して58年8月に事業や行事を催したが、少年のころに遊んだ外山の頂に「最上河」の一節を刻んだ文学碑を建てた。日向川の重量感のある自然石である。

次郎の師は古里の山河であった。少年次郎の目に映じた、庄内平野の広さと、鳥海山や月山の高さと、最上郡に連なる山また山の奥の深さであった。次郎の77歳の生涯は、哲学者として、教育者として、広さと、高さと、深さを求めて惜し気もなく燃焼させた一生ではなかったか。最後に

月なきか月あるか木枯沈む夜の声

白内障にて目が不自由となった次郎晩年の作を記して終わりたい。

(筆者・鈴木正治 氏/1988年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

阿部 次郎 (あべ・じろう)

東京帝大に在学中から齋藤茂吉らと深く関わり、小山内薫らの「帝国文学」の発行に参画し、編集委員をつとめた。また明治42年に夏目漱石の門下生となって朝日文芸などに多くの文芸、哲学の評論を書き、読売新聞の客員(同44年)にもなった。よく知られている「三太郎の日記」を発表したのは大正3年。雑誌「思潮」も主宰し同11年には文部省の海外研究員となって渡欧している。東北帝大教授として仙台に移った後、帝国学士院会員に推され、万葉集など日本文学の研究にも励んだ。著書「阿部次郎全集」17巻もある。

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