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郷土の先人・先覚321 努力で“ハードル”越え

池田弥(大正8-昭和61)

戦前、酒田商業学校陸上競技の黄金時代を築いた選手の中に池田弥がいた。跳躍を主とした種目の中でハードルを得意とし、4年生ごろから始めて急速に伸びた選手という。

昭和11年、酒田商業の陸上部主将当時、6月28日の県下中等学校陸上競技大会でハードルと走り高跳びで優勝、同年9月の東北中等学校大会でもハードル、走り高跳びで優勝している。これについて同校の小石校長は「平素おとなしい性質なので予選はどうかと心配したが、実力以上を発揮して代表選手になれました。父も兄も競技に熱心で同君の今日あるのも、偶然ではないのです(以下略)」と語っている。

大会は全国中等学校選抜東西対抗(東京日日・大阪毎日主催)で、出場の弥は16秒0の好タイムで優勝の栄冠に輝き、酒田商業の名を高めている。そして山形県の陸上十傑にはハードル1位、走り高跳び2位、走り幅跳び6位にランクされ活躍している。

昭和14年11月、日本陸上選手権大会のハードルでは一般の強豪に交じり3位の入賞を果たし、恵まれた素質と若さを期待せられた。

戦争も終結した昭和21年、酒田で陸上競技協会再建を図る人たちが会合、懇談を重ねており、そのなかに池田弥の名もみられた。やがて同年酒田陸上競技協会が誕生、初代会長に神足俊太郎を選び、トレーナーとして池田弥も名を連ねており、昭和39年東京オリンピック大会には、今までの体験を認められ、堀五十治、佐藤吉右衛門らと競技役員として参加している。

その後の大会成績は、昭和22年第2回金沢国体3位、32回日本選手権山形大会3位、同24年第4回東京国体6位とハードルで活躍。

ほかに昭和32年度、同34年度、同38年度には、酒田体協功労者表彰で栄光賞を受けている。

酒田商業卒業後は仙台鉄道局(現在のJR)に就職、後新潟局に転勤して酒田鉄道診療所の事務官として勤務、多くの鉄道職員に親しまれた。

また、全国鉄陸上競技大会が過去3回酒田で行われ、その際には選手や役員として地元開催に貢献している。

練習を欠かさない人で、学生時代は約4キロもある光ケ丘競技場に通い、ハードルを飛び越え鍛えたという。それでも毎日疲れた体にムチ打って勉強を怠らない努力の人であった。昭和61年没。スポーツと国鉄に情熱をかけた生涯を終えている。

(筆者・荘司芳雄 氏/1995年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

池田弥(いけだ・わたる)

北海道函館の生まれで、8歳のころ一家で酒田に移住している。家族はいずれもスポーツマン。性格はおとなしく真面目で職場でも家庭でも競技中に観る厳しさなど微塵もみせない人柄であったという。

身長は177センチ、当時にしては長身であり、ハードルや走り高跳びには恵まれた体質と、努力が実を結んだことは論をまたない。享年66歳。

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