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郷土の先人・先覚33

小倉 金之助

小倉金之助氏と家族の写真

金之助は明治18年3月、酒田船場町の廻船問屋・小倉金蔵の孫として生まれた。小倉家は文化時代、北前船が盛んになってから栄えた船場町の新興商人で、明治中期には三艘の北前船を持つ豪商にのし上がっていた。

彼の生い立ちは著書『数学者の回想』にくわしいが、神経質で感受性に富んだ少年だったらしく、琢成小学校(現・総合文化センター)に通うのが辛く、よく休んだ。今でいう登校拒否である。

ところが、担任が大宮出身の和島先生に代わってから、急に勉強への意欲が出て、学校も休まなくなった。

特に化学に興味を持ち、明治27年の大震災で焼けた空き地で実験をした。化学勉強のため英語や、代数の本を近くの書店から買い求めて独学をした。

その頃、算術の試験を代数で解き、和島先生から「教えられた方法で解きなさい」と注意された。

学問に情熱を燃やしていた金之助少年はどうしても鶴岡の荘内中学に入りたかった。しかし、祖父金蔵は、廻船問屋に見習奉公にやり、家業をついでもらうことを望んでいたから許すはずはなかった。かろうじて祖父の出張中、祖母のはからいで受験し、入学することができた。

中学へは同級生で親友だった伊藤吉之助(哲学者)と一緒に入った。2人はよく休み時間に、校庭で肩を並べて「僕は将来、宇宙の真理を数学の方程式で解いてみせる」「僕は真理を哲学的にとく」などとお互いに夢を語り合った。

まもなく、彼は上京し、物理学校に入った。このときも祖父の大反対があったのはいうまでもない。小倉の前半生は祖父と学問との相克であった。そして、祖父の急死で、やむなく東大選科を中退して家業をついだ。前垂れをあてて帳場にすわっていても、学問への意欲はつのる一方で、わずかに永井荷風の小説を読んで慰めていたが、持船が沈没したのを機会に、家業をたたむ決心をし、全てを売り払い、東北大学の数学助手となった。

大正5年「保存力場における質点の経路」で理学博士となり、翌年大阪の塩見理化学研究所に移り、同8年より欧州各地を歴訪、帰国後の同14年、塩見理研所長となった。昭和12年東京に移住し著作活動に入った。

『数学の根本問題』『数学教育史』など多数の著書があり、現在彼の業績は高く評価され日本数学界の指導理念となっている。民主主義科学者協会会長、科学史学会会長、東京理科大学理事を歴任、昭和37年、77歳で没する。

(筆者・田村寛三 氏/1988年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

小倉 金之助 (おぐら・きんのすけ)

明治・大正・昭和にわたる国際的数学者。家業都合によって進学した東京帝大理科大学選科を中退して家業の廻船問屋を継ぐ。明治44年東北帝大理科大学の設立に伴い、招かれて林鶴一博士のもとで数学助手。学位をとった翌年の大正6年から大阪に移り、欧州各地を訪れ、同9年にはフランスで開かれた国際数学者会議にも出席。塩見理研所長時代には広島文理科大、大阪帝大の各講師も務めた。東京物理学校理事長を歴任し、終戦前後は一時、黒森に疎開したことがあり、数学史家としても知られ、和算、統計学も深く研究していた。

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