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郷土の先人・先覚331 地方政界の優れた指導者

小野寺棣三郎(明治24-昭和20)

小野寺棣三郎は昭和9年の新聞『新庄内』に、「おれは政治家のたちでなく、雑魚を釣ったり、村の仕事の面倒を見るのが正確に合っているが、親父が長い間官吏をしてからに、お前は野武士になれ、官吏には断じてなるな、官吏ほど個性を殺すものはないから…と教えられてから柄でもない政治に手を出したんだ」と語っている。

小野寺棣三郎は前記の言葉通り、若くして村長や県会議員となり、知性と卓見、それに地方人には稀な鋭い弁論と情熱によって、地方政界における優れた指導者となった。

大正10年1月から昭和20年10月の没年まで二十数年間、南平田村の村長であった小野寺は、村民の生活向上を常に心がけていた。特に農村自治については、将来村を背負う青年の教育が重要と考えていた。そのためにも、中等教育を受けることができない青年たりに農村人としての教養を身につけさせる自治講習所の建設を主張していた。

農産物の増収にも心を用い、灌漑施設の充実が最も重要であると考えていた。大町溝の管理者としても、大町溝の水源の水量減少に危機感を持ち、大正13年には最上川からの動力揚水の必要性を力説している。その努力が実を結び、昭和2年、大町溝用水改良事業が竣工している。

大正デモクラシーの影響で、柔軟な思考の持ち主であった小野寺は、大正15年に小学校教育があまりに型にとらわれ、児童が機械的に取り扱われていると批判し、親しみのある教育を村でやりたいと述べている。

県会議員としての活躍も目覚ましく、鋭い論説とさわやかな弁舌で、県当局や議会を追及した。例えば、議会の議事進行について、「議長は往々に議員の発言を封鎖する傾きあるが、何の権利があって発言を封鎖するか」と議長に迫っている。

その活躍ぶりは、養子が似ていることもあって、著名な政治家・尾崎行雄に擬して「小尾崎」と称された。地区民の信頼が厚く、いつの選挙でも地区民がすすんで選挙費用をととのえ、清貧の小野寺を支援した。

文化面での活躍も著しく、二十代初めの明治末から小野寺棣堂の名で『酒田新聞』に「時事を鑑み卑見を述ぶ」などを投稿し、大正3年月刊紙『新庄内』を発行した。

(筆者・須藤良弘 氏/1996年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

小野寺棣三郎(おのでら・ていさぶろう)

政治家。明治24年平田村飛鳥に生まれる。県立山形中学校卒業、早稲田大学中退。昭和2年から20年まで県会議員、その間副議長。大町溝改良区理事長。昭和16年、飽海郡農業会会長。飽海有恒会の有力メンバーであった。昭和17年、全国町村長会で自治功労者として表彰される。普段は口数が少なかったが、いったん口を開くと何時間でも熱弁を振るった。酒を飲まず、甘いものを好んだという。昭和20年10月7日、55歳で死去した。

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