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郷土の先人・先覚334 庄内農業の発展に寄与

大沼作兵衛(明治元-昭和8)

八栄里村大野の大沼作兵衛は、生涯「鋤犂(じょれい)報国」を実行し、庄内農業の発展に大いに尽力している。

明治24年、東田川郡に福岡県人島野嘉作が乾田馬耕の教師として招へいされると、作兵衛は早速師事している。自分の家の田で、湿田より「白乾し」の乾田化されている田が、稲の根張りがよく、生育も良好で、多収であることを知っていたからである。

しかし、「白乾し」の田の耕耘は非常に重労働であったことから、馬耕によって重労働から解放され、能率は向上し、人耕より深耕できるとして、他の反対を押し切って馬耕の習得に励んでいる。

その結果、明治29年には郡の馬耕競犂会で一等賞となり、酒田の本間家から筑前平鍬一丁、飽海郡の馬耕教師・伊佐治八郎より馬耕器取扱などの「馬耕行術得業十ケ条」と乾田苗代などの「改良乾田法二十五ケ条」の特許を受けた。

乾田馬耕の普及に努め、県会議員などを務めた佐藤清三郎の昭和3年4月15日の日記に「大沼作兵エ氏還暦記念馬耕競犂会」とある。作兵衛の馬耕普及をたたえた盛大な会であった。

稲の品種改良にも心掛け、特に明治31年にいもち病の被害を受けたことをから翌年は在来種をやめ、信州金子などの品種に変えたところ大豊作となった。それで品種創選に興味を持ち、33年から試験を実施した。

自然雑種した変種を探して「抜き穂」をし、それを調べ、良品種と認めた系統は次年度に種籾として試験を続けた結果、明治42年までに大野一号から四号までの新品種を作った。42年にはさらに多収で良質な品種に「出羽錦」と命名している。

ウンカの駆除についても、農業雑誌から得た知識をさらに自分なりの工夫・研究によって、大凶作の年でも平年作以上の収穫を上げた。

稲作に重要なたい肥作りに、わら工品として需要の多いわらの代わりに、紫雲英の栽培に目を付けた。明治36年その種子を手に入れ、試植してみたが寒冷地のためか1本も発育しなかった。

しかし、その後も断念することなく続け、ついに8月中旬に播種した場合は生長することを発見した。大正8年の春のことである。その後、この地方にも水田裏作として、紫雲英の栽培が普及していった。作兵衛は自分の経験を踏まえて、大正13年に冊子「吾家の紫雲英」を発行している。

(筆者・須藤良弘 氏/1996年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

大沼作兵衛(おおぬま・さくべい)

農業。明治元年大野村(現・庄内町)に寅蔵の長男として生まれる。17代目。先祖がこの地を開く。庭園は300年以上前のものとして知られる。明治13年に化成学校上等一級卒業、15年に同校授業生も務める。温厚篤実で実行力があり、質素な生活を常とし、みのかさを身から離すことがなかった。昭和5年2月26日死去した。

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