文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚335 庄内の美田化に力

佐々木彦作(文政2-明治13)

昭和30年11月22日、大豊作感謝祭で賑わう余目町の乗慶寺で、埋もれていた18人の篤農物故者慰霊祭が行われた。その中に3代にわたって荒野を美田に変えるのに功績のあった佐々木彦作父子がいた。

最上川下流左岸の北部は、北舘大堰の恩恵を受けてはいたが、それは一部分で、狩川・余目・大和・常万・新堀の村々は、昔から水利の便が悪かった。そのため、原野や畑が多かった。

嘉永年間(1848-1854)、干害に苦しむこの地の農民をみて、彦作は新しい堰を造る決意をし、その計画に着手した。

まず、密かに自費で水準測量器であったが、それで最上川の流れと平野の高低を測量した。その結果をもとに総合計画をたて、文久4(1864)年、代官所を通して庄内藩に願い出た。しかし、「百姓になにができるか」と言われ、許可されなかった。

文久4年以来数回にわたって請願書を出し、明治3年には山形県酒田出張所にも願い出ている。家業も顧みず、一切の私財を投じてその実現に努めた。反対する村民もいたことから、その説得にも奔走し続けた。その結果、明治10年12月、ついに三島庸県令によって事業が認められた。

喜び勇んだ彦作は翌11年、東興屋村までの約3キロにわたって試掘を開始した。12年には本水門を設けるところまで進展した。

しかし、最上川から用水を取り入れて古田に補給し、さらに畑や原野を田にすることを目的とした彦作の新堰開削は、技術的に未熟であったことや資金難、12年7月の最上川大洪水によって工事は失敗する悲運に見舞われた。

畑作に依存していたこの地の農民は、生産していた菜種は石油にとって代わられ、大豆・小豆は北海道産の移入によって収入を失った。新田開発と古田改良が急務となっていた。

その後、彦作の遺業は子の寅太郎に受け継がれた。寅太郎も苦しい家計の中で努力したが、49歳で倒れ、工事は再び失敗した。

孫の健太郎が祖父、父の事業の継続に努めるが、結局、事業家吉田寅松によって彦作の夢が明治43年8月実現され、990町歩が開田された。

この堰は吉田堰と名付けられたが、世人は彦作を忘れず、彦作堰と称した。

(筆者・須藤良弘 氏/1996年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐々木彦作(ささき・ひこさく)

農業。文政2年、払田村(現・庄内町)の農業池田七左衛門の二男として生まれ、興屋村(現・庄内町)の農業兼小間物商佐々木家に養子に入る。彦作は5代目。『彦作堰開発絵図』の評価は高い。工事で心身ともに疲れ果て明治13年8月5日死去。明治43年10月28日「佐々木彦作君功労之碑」が建立され、同44年7月16日、その建碑式が行われている。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field