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郷土の先人・先覚337 吉田堰開削の陰の功労者

土屋善作(慶応3-昭和18)

最上川南岸の岡所990町歩を美田に変えた吉田堰の開削には、佐々木彦作一族や吉田寅松以外にも多くの人々の力があった。これらの陰の功労者の一人に土屋善作がいる。善作は新堰開削にいたるまでの苦しい経過を自伝にして書き残している。

九州生まれの本山盛徳が、明治25年に清川村下五か村での新堰開削と開田の認可申請を出すが、郡長は彦作の時に発生した紛争の再発を恐れ、手続きを行わなかった。本山の計画に賛成であった若い善作と渡部重治、長南国之助の3人は数回その督促のために郡役所に足を運んだが、郡では青年たちの願いを聞き入れなかった。それで、直接県庁に出掛けて、土木課長や県会議員に陳情を開始している。

しかし、この運動は失敗に終わった。村人は堰の開削運動で土屋家は財産を失うと心配してくれたが、開田を望んでいるだけで、事業に資金を投じる気持ちはなかったと善作は述べている。

明治34年、東京の井上忠常が新堰を計画し、善作も運動を進めた。善作は日本が世界列強と肩を並べるには農工商業の発達が重要とし、そのためにも開田事業を進めるには、関係区域が一致共同して認可申請に努むべし、と論じている。

明治36年、東京の実業家・吉田寅松が新堰開削に乗り込んでくるが、地元代議士から開田面積が狭く、関係者の意思もまとまっていないと聞き、失望して東京に帰ることにした。それを知った渡部重治は、吉田を清川の矢口旅館に連れ戻し、翌朝より善作らと新堰予定地の実地踏査を行った。土地が肥沃で面積も広いことを知り、吉田は着手の決意をした。

しかし、その直後、余目村村長とのトラブルから再び吉田は事業を断念するが、善作は必死になって吉田を引きとめ、新堰が完成した時には水代米を吉田に払う条件付きで説得に成功した。契約書には関係する村々の全村民の調印が必要であったので、翌早朝から善作らの行動が開始された。

かつての彦作堰の失敗や吉田との契約への不安などから調印を渋る村民も多かったが、善作は誠心誠意説得に努めた。大地主の中には居留守を使う者もいたが、「私は取りまとめの責任者である。吾面前にあって不在とは如何せん次第なるか」と詰問もしている。

明治43年、吉田堰は吉田堰水利組合によって完成するが、善作らの情熱に負うところが非常に大きい。

(筆者・須藤良弘 氏/1996年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

土屋善作(つちや・ぜんさく)

農業。慶応3年、中堀野(現・庄内町)の神官・土屋寛文の二男として生まれる。寛文は寺子屋の師匠で、善作も学ぶ。明治26年、中堀野の門人達が「土屋寛文大人碑」を建立している。子孫の話によると、非常に実直な性格で、公・私の仕事をきちんと両立させた。独学で測量技術を学び、最上川沿いの砂子地区の耕地整理にも力を尽くす。昭和18年2月4日死去した。

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