文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚341 百合坊の調査に情熱

武長光朗(明治40-昭和57)

武長光朗の先祖は、江戸中期地方俳壇の宗匠として名を成した武長百合坊で、後年その事跡調査に打ち込んだ人である。

青年時代は兵役に服し除隊後も青年訓練所や青年学校の指導員として、軍事教練を担当していたが、昭和12年召集で海老名部隊に配属、北支山西省に転戦、同15年召集解除となって帰還している。

その後は多くの会社に関係し、経営手腕を発揮。退職時には関係会社全ての常務取締役であったと聞いており、信望の厚い人柄を知ることができる。

百合坊は本名・五郎兵衛、俳号・以文である。天明5(1785)年、美濃派の獅子門五世を継いで同派を隆盛にした俳人で、辞世に次の句がある。

・我が墓も願はば梅の下やどり

昭和45年、会社を退職した光朗は、第二の人生として当時の俳諧と百合坊の事跡究明を始め、多くの俳書や古文書などの資料収集をすると共に、古文書解読の必要を痛切に感じ「古文書同好会」に加入。勉学に励み、俳壇に名を残した先祖百合坊の調査に情熱をかけた。

記録によると俳諧には「墨直し」の行事があった。墨直しとは「碑面にさした墨が風に褪せたのを新しく墨を点じ直すこと」である。百合坊は師の遺訓を守り同門の中心となって毎年「墨直し」を行い、百合坊没後も門人たちが遺志を継ぎ、百合坊の碑を建立して毎年同行事と句会興業をしたと記録されている。

昭和48年、かつての「墨直し」を古文書同好会と諸派俳句会共催により泉流寺の6俳人(支考・玄武坊・百合坊・芦錐・花笠・魯秀)の碑前で行い、光朗が代表して百合坊の碑に筆を入れている。その時の感激を次のように詠んでいる。

・そのかみの薫り慕うて墨直し

時桜花爛漫の候で盛大であったことを覚えている。

ところで、同51年酒田大火で自宅も類焼、長い間苦労して集めた資料の一部も焼失したというが、さぞ残念だったことだろう。

晩年は川柳の趣味を持ったが川柳会や他の吟社に属さず、猫の目のように変わる世相を題材にした時事川柳のみに没頭、新聞川柳欄に投句を続けたようである。

・舌の根も乾かぬうちにみな値上げ 光朗

(筆者・荘司芳雄 氏/1997年1月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

武長光朗(たけなが・みつろう)

明治40(1907)年酒田米屋町(現・酒田市一番町周辺)に生まれる。長じて甲種酒田商業学校に入学。大正13(1924)年卒業する。

百合坊の生涯に光を当て、情熱を燃やした努力の人であった。晩年はよく旅行に出掛け楽しんだというが昭和57(1982)年、75歳で死去した。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field