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郷土の先人・先覚343 荒れ地を美田とする

石塚綱吉(慶応3-昭和21)

昭和10年5月30日、上郷村成興野地内にある上郷溝耕地整理組合の揚水場前で、石塚綱吉の銅像の除幕式が行われた。

150人の来賓や村民、地見興野小学校児童などが式典に参列し、そのあとに小学校で直会が催され、青年団や女子団の郷土芸能が演じられた。まさに、村あげての祝賀であった。

石塚綱吉は若いときから、農村の繁栄策として、農村経済の確立と農事の合理的改良が必要と考え、そのために力を尽くしてきた。

この地方は、用水不足であったことから畑作に頼らざるを得なかった。それに、少ない水田でさえも、明治9年の水田地味の等差では、飽海郡で最低の9等である。畑が主と思われる陸田も9等である。それで、明治時代から、最上川より引水してかんがい用水とし、開田する計画があった。

石塚綱吉は、かんがいで畑を田に変えることによって、生産力を増大し、貧しい村を更生させ、豊かにしようと決意した。それには動力揚水によってかんがい揚水を確保し、開田することに利便性があると考え、活動を始めた。

明治の仲ごろ、既に開田を目的に機械で揚水しようとして、地区の一角に揚水機を設置した先人がいた。ところが、当時の機械は非常に幼稚なものであったために成功の見通しさえつかないまま失敗に終わった。

それを知っていた村民は、綱吉の熱心な提唱にも不安を抱き、綱吉の単なる冒険と考えて反対した。村内が混乱し、すぐに実行に移すことは不可能となった。

でもそれに屈せず、最近の機械は発達しており、前のような失敗は絶対無いことを力説し、時間をかけて説得に当たった。さらに動力揚水の先進地の視察を勧めては、その利を説いた。

たゆまない努力がついに村民を信服させ、大正12年3月、上郷溝耕地整理組合が設立され、その組合長に推された。

その後も苦労を重ねたが、同村地内に揚水機を設置した。綱吉の熱心な働きで、昭和9年当時、100町歩余のかんがい開墾事業に成功し、荒れていた地は美田となった。山麓に位置するこの水田の収量は、昭和14年度には平野部に劣ることはなかった。この事業の成功によって、経済的に苦しかった村は救済された。

若い時から農事に関して指導的な役割を担い、同じ上郷村出身で、県会議員、農業技術の改良者として著名な今田三郎らと村の経済発展に努めた。

(筆者・須藤良弘 氏/1997年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

石塚綱吉(いしづか・つなきち)

農業。慶応3年10月7日成興野(上郷村、現・酒田市松山地区)に生まれた。石塚家は大正14年に上郷村で所得額3位の大農家であった。農事への関心が強く、一例を挙げると、切替野の所有権争いで成興野が勝訴し、それを記念する碑を建立するときもその発起人として活動している。村会議員、上郷村村長、郡会議員、上郷村信用販売購買利用組合監事などを歴任。心が広く、堂々たる態度で識見に優れ、先見の明があった。昭和21年死去。

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