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郷土の先人・先覚39

星川 清躬

星川清躬氏の写真

「創生の日に空に三つの神座して光と美と力の位相を象った 日と、月と、風と、」と格調高く自作詩「耕人頌」の最終の十聯目でうたいあげた誇り高き詩人・星川清躬は、1923(大正12)年に家業の開業医の仕事に携わるために鶴岡の生家に帰ってから、1940(昭和15)年に開業先の秋田県雄勝郡西馬音内町の医院で急逝するまで約19年間にわたる詩人としての作詩活動をはじめとして、またエッセイスト、医師、不況で借金に苦しむ農村の開放運動家としての活動など、その他まだまだあるの彼の諸活動の足跡は、まさにあまりにも多彩で驚嘆されるのみである。

清躬は1896(明治29)年に鶴岡市鳥居町丁73番地の医師で国学家の星川清民、徳江の二男として出生し、市立第三小学校から県立鶴岡南高等学校の前身である県立荘内中学校を経て、1916(大正5)年に京都府立医学専門学校に入学し、同校卒業後鳥取県の米子病院や兵庫県神戸病院へ勤務。1923年に鶴岡の生家に27歳で帰って久夫人と結婚している。

翌年4月に文芸同人雑誌「魚鱗」を三井光弥・上野甚作・斎藤勇・加藤平治・結城健三らの同人と語らって創刊し、自ら発行人となって盛んに詩作を発表したり、詩話会やレコード鑑賞会の開催など多彩な文化運動の推進家として活躍、1936年に破産して鶴岡を去るまでその活動は続くのである。

清躬の詩や訳詩、随筆、論文などは、加藤磯吉や、平治兄弟が発行していた月刊文芸雑誌「一九二四」や、能村潔や村野四郎などが東京から発行していた同人雑誌「詩編時代」、さらに「魚鱗」の改題誌である同人文芸雑誌「北潮」や蓮池奈保夫、結城健三など同人13名で発行した月刊文芸雑誌「地霊」、川路柳虹が中央から発行していた雑誌「炬火」などの詩誌や文芸誌のほか、協働村落文化研究会機関紙の「協働村落」などに数多く発表している。

また、詩集では、1925(大正14)年29歳のとき魚鱗社から自費出版した処女詩集「石の門」、彼が急逝した昭和15年の死亡後に室生犀星の序文で言霊書房から発行された「古典詩抄」、それに1942(昭和17)年に言霊書房から発行された詩集「彦根屏風」、1951(昭和26)年河出書房から出版された日本現代詩大系第7巻への代表作12編、1978(昭和53)年佐藤朔太郎発行の「星川清躬全詩集」などがあり、そのいずれもの作品が今日みても現在作られている現代詩と比べて見劣りしないどころか、むしろ表現は斬新で、見るものに感動を与えないではおかないと多くの権威者は言っている。

(筆者・鳥海 惇 氏/1988年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

星川 清躬(ほしかわ・きよみ)

幼少のことから文学を好み、医師のかたわら詩人、エッセイスト。多彩な文芸活動を行っていた。同人雑誌「魚鱗」の刊行、鶴岡詩話会を結成。音楽鑑賞団体の紫光会や、映画鑑賞団体を組織、農民活動、組合活動へと活動の場を広げた。昭和5年には当地方では画期的な産児制限運動を行い、農村を巡回して指導、自宅でも講習会を行ったほどだった。温海町の木野俣に移住して組合病院活動したこともあり、同12年に秋田の小坂診療所に移った。ペンネームは柳雅夫、浄華院三千麿。

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