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郷土の先人・先覚42

池田亀三郎

池田亀三郎氏の写真

明治17年5月21日酒田市浜町、池田亀蔵の六男として生まれた。酒田尋常小学校、山形県立荘内中学校に学び、京都第三高等学校を経て東京帝国大学工科大学を卒業。直ちに三菱合資会社に入社、後に三菱鉱業に転籍する。以来、岩崎小弥太社長の信望厚く、終戦までの間に三菱石油、三菱石炭油化工業、日本化成工業の常務、専務、社長などに就任した。さらに次の各社の取締役を兼ねた。

旭硝子(株)、武田化成(株)、ライオン油脂(株)、(株)三菱社、日本アルミニューム(株)、三菱マグネシウム(株)、東洋カーボン(株)、化成品配給(株)

次の各種公職に就く。

硫安肥料製造業組合理事、商工省有機合成事業委員会、化学工業統制会、重要産業協議会、航空工業会、日本経済連盟、化学工業連盟

日本の敗戦により、昭和21年三菱本社は解散となり、池田亀三郎も公職追放となってこれまでの活躍も一頓挫となった。ただし25年の追放解除以来、再び経済活動が始まったが、戦後は率先して先端事業である石油化学事業に取り組まれると同時に、業界の編成とりまとめと、その育成のための教育に力を尽くされた。

事業としては31年三菱油化(株)設立社長就任、32年に日本合成ゴム(株)設立取締役、38年日本プタノール(株)設立社長就任、40年には鹿島コンビナート建設協議会設置。

一方、25年公職追放解除後は戦後に数倍する各方面の公職に就かれることが多くなり、数え切れない程であるが、その一端をあげれば、経済団体連合会理事、工業技術協議会委員(通産省)、行政審議会委員、東京都産業教育審議会会長、輸出入取引審議会委員、産業合理化審議会委員、日本関税協会常務理事、(社)公正取引協会理事、全国資産再評価調査会委員(国税庁)、山形県産業教育振興会顧問、石油化学工業協会会長、水質審議会委員(経済企画庁)、科学技術庁顧問。

これらの功績により昭和45年に勲一等瑞宝章を受けている。おそらく庄内の郷土出身の先輩で、これほど日本経済に大きな影響を与えた人は他にいないのではないかと思う。

昭和49年秋から東京女子医大病院に入退院を繰り返す様になり、52年4月2日に同病院で永眠された。

以上が池田先生のおおよその足跡であるが、私が先生にお世話になったのは日本の敗戦により本間家の田地がなくなり、今後どうしたらよいかと迷っていた時である。当時、先生は財閥解体の上、公職追放にもあわれていたのであるが、それがようやく解けたころであった。

最初は虎の門近くの日本化学工業協会の事務所にお尋ねしたが、次第に自宅の方に伺うようになった。それも酒田から夜行列車に乗り朝6時ごろ上野に着くとまっすぐ自宅に伺うのだから、今にして思うと全く冷や汗ものであるが、何故かいやな顔もされずに直ぐ会ってくださる。その内に朝飯を食ってゆかないかと言われ、何度もご馳走になった。

仕事上の事を色々とご相談するのだが、数字については誠にきびしく、不備な点はどしどし攻撃されるので、遂に尻尾をまいて逃げ帰ったことが再三ならずあった。

しかし色々な財界人に会わせていただいたのみならず、私の士族の商法的な甘い考えに、鉄槌を打ち込んでいただいたご恩は生涯忘れることができない。

その間先生が酒田にお出での時、商工会議所が主催で先生の講演会を開いたことが二度あるが、その際の先生のお話の内容が難しい化学工業の話であり、またその規模が世界的に大きいものだから、当時の酒田の人からはほとんど理解されないでしまった。

また、先生の親戚の人がものを頼みに行っても、親戚だからといって無条件に取り上げることをしなかったから、当時酒田の人たちの間には先生は郷里に対して冷たい人という空気が流れていた。

しかし、昭和40年、先生が茨城県鹿島地区に石油化学コンビナートを建設されると決まった時、私に言われた言葉が思い出される。「本当はこの石油化学コンビナートを酒田地区に造りたかったのですよ。ところがあなたのご先祖が余り農業に力を入れて美田を造ってしまったので地価が高くて立地することが出来なかったのですよ」と。

その後、私は鹿島とはどんな所かと、タクシーを頼んで海岸沿いに走ってもらったが、ほとんどが原野であるので、なるほどと思った。

コンビナート事務所に行って「池田亀三郎さんと同郷の者ですが」と言って案内してもらったが、まるで下にもおかぬ待遇で、帰りは電車に乗って帰ると言ったのに、東京まで車を飛ばしてくれた。ここに来て池田先生の影響力の大きさに驚いてしまった。

もし、このコンビナートが酒田地区に立地されていたならば、港も何倍もの大きさになるし、この地方に与える恩恵は計り知れないものがあったと感慨に堪えない。

鹿島コンビナートのころは先生の年齢も80歳を超えられ、時に私が刈屋の長十郎梨などを持参すると、こんなにうまい梨はほかにないと言って喜ばれ、柿でも鱒でも郷里のものは皆日本一だとほめられる。

さらに浜田小学校のわきにあった先生の別荘を、そのころ酒田市に寄付されて、今この施設は清亀園として各種文化事業に利用されている。

あの様に事業にはきびしいところのあった先生も、年をとられるにつれて次第に心は望郷の念にかられて来るのが分かるような気がした。先生のお墓はいま京都の東本願寺にあるが、親戚の方々が計らって酒田市の安祥寺の池田家墓地にも分骨されている。

また、夫人・よし子さんの行動には私として眼を見張るものがあった。夫人は以前からかなり太っておられて薬に親しむ生活をされていたが、45年ごろから寝たり起きたりの暮らしで、自宅にうかがってもお目にかかれなかった。

それがご主人の入院と同時に不思議にもシャッキリされて、以来約3年の間毎日自宅と病院との間を往復し、つきっきりで看病されて、ご自身は疲れた顔もされないのを見ると、妻という存在の偉大さに心打たれるものがあった。夫人は池田先生がご他界した翌年に亡くなられた。

(筆者・本間久治 氏/1988年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

池田 亀三郎(いけだ・かめさぶろう)

実業家。幼少のころ書家・山口半峯のもとで書を習った。明治42年東京帝大工科大学採鉱治金科を卒業し、三菱合資会社に入社。九州、北海道の炭鉱に勤務、大正9年三菱鉱業(株)美唄鉱業所長、同14年本社技師長、昭和3年常務取締役に就任した。同14年日本化成工業(株)社長となり、関連各社や政府関連団体の役員として活躍。日本の石油化学工業を振興させた第一人者。92歳で死去した。

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